恵み深い主に感謝せよ(札幌新生教会の歴史)


このページでは札幌新生教会の歴史を紹介しています。

2020年11月に書き始め、月1回のペースで記事を追加して、2022年8月に完結しました(全22回)

下の方から始まり、いちばん上が最終回となっています。


恵み深い主に感謝せよ・22(最終)

2020(令和2)年に教会創立110周年を迎えるにあたり、記念事業計画委員会が2017(平成29)年に設置され、計画がまとめられました。記念刊行物を発行するための編集委員会も同時に設置されました。

ところが、創立110周年が幕を開けた途端に、新型コロナウイルス感染症の世界的流行の波が北海道にも押し寄せました。まず、2月に毎年実施する「雪まつり伝道」は中止を余儀なくされました。それでも、3月から、記念事業の一つである「教会を挙げての賛美」として、新聖歌495(世を治め給うイエスは)の賛美を開始しました。

その後、教会の集会の多くが休止となりましたが、主日礼拝は、プログラムを短縮しながらも休むことなく行われました。

6月には、教会と自分の関わりを述べた証し73編を収録した『札幌新生教会と私』が刊行され好評でした。10月には、10年ごとに発行する『証し集』(第五集)が完成しました。これらの冊子は国立国会図書館と北海道立図書館にも納本されました。

10月18日、教会創立110周年記念礼拝が行われました。11月、追分宣教88年・献堂20周年記念礼拝が追分めぐみチャペルで行われました。12月、祝会なしでクリスマスを祝いました。

こうして、教会創立110周年は幕を閉じました。翌年にかけて岡田順一牧師の説教要約集(第1巻、第2巻)が発行されました。(完)

教会創立110周年記念礼拝

(2020年10月18日



恵み深い主に感謝せよ・21

2016(平成28)年6月、月報『聖流』は創刊から25年となり、全8頁の特別号を発行しました。同年10月、献堂30周年記念礼拝を行いました。

2018(平成30)年4月28日、第8代牧師小林浩師が78歳で召天。7月に記念式を執り行いました。同年9月発行の『聖流』は小林師の追悼号として、全16頁での発行となりました。

2018年9月6日午前3時7分、胆振東部地震発生。追分めぐみチャペルを震度6強の激しい揺れが襲いました(札幌中央区は震度4)。

追分めぐみチャペルは、会堂内外に被害を受けながらも、キリスト教各団体による被災者支援活動の拠点としての役割を担いました。この結果、失ったものより受けた恵みのほうが大きくなりました。翌年にかけて、会堂修復工事を行い、美しい会堂がよみがえりました。

炊き出し開始前の祈り(2018.9.17)

安平町追分の花園若草会館前にて。

中央で祈るのは菅原ひかり師。

(写真提供:日本基督教団北海教区)

 

追分めぐみチャペル



恵み深い主に感謝せよ・20

教会創立100周年の諸集会・事業が終わった2012(平成24)年の教会定期総会で、岡田順一牧師は「宣教8年計画」を掲げました。これは宣教の前進、信仰の継承を目指す「総動員伝道」で、岡田牧師が8年後の創立110周年に向けて、祈りのうちに神から示されたビジョンです。

その具体化として、5つの委員会(営繕、礼典・音楽、友愛・広報、伝道・教育、会計)が設置され、基本的に教会員はどれかの委員会に所属することになりました。また、レプタの会(聖歌隊)の他にも、ホサナバンドやアカペラ・アンサンブルなどの賛美チームが活動を始めました。

同年(2012年)、追分の担任教師が、千葉維保子師から菅原ひかり師に替わりました。

2015(平成27)年、新たな企画として音楽鑑賞会が始まり、クリスマスに「メサイア」(ヘンデル作曲)を、字幕スライドを見ながら鑑賞しました。

アカペラ・アンサンブル

(2012年10月、初回の奉仕)



恵み深い主に感謝せよ・19

2010(平成22)年、教会は創立100周年を迎えました。3月に記念祈祷会を行い、100周年の祝福を祈りました。また、4月に杉岡ひとみ師、5月に清水真理師、6月に島隆三師(いずれも当教会出身)をお招きして記念特別礼拝を行いました。7月には、本間義信師(玉川キリスト中央教会)を講師として、記念夏期聖会が開かれました。

そして10月には、1日から3日間、記念集会、伝道会、礼拝が行われ、多くの出席者がありました。記念礼拝では第8代牧師の小林浩師が講壇に立たれ、「恵みの神は遜(へりくだ)る」と題するメッセージを語られました。「レプタの会」(聖歌隊)が「聖なる都」を賛美しました。

この年、10年ごとに発行する『証し集』(第四集)が刊行されました。2012(平成24)年には、『恩寵あふれる恵みと慈しみの一〇〇年』(教会百年史、全633頁)が刊行されました。

創立100周年記念集会

(2010年10月1日)



恵み深い主に感謝せよ・18

2005(平成17)年、第9代牧師岡田順一師の就任によって勢いを得た教会は、5年後の創立100周年に向かって、力強く歩み始めました。6月には、『教会百年史』を編纂する委員会が設置されました。

同年11月、岡田牧師は、神愛園清田(特養)における礼拝で奉仕し、以後毎月奉仕しました。2006(平成18)年には、札幌刑務所から教誨師の委嘱を受けました。伊藤師、小林師に続き当教会から3人目です。

2006年10月、クリスチャン歌手の本田路津子さんをゲストに招いて、献堂20周年記念コンサートが行われました。

2008(平成20)年8月、聖歌隊は「レプタの会」と改名し、創立100周年記念行事での奉仕を目指して練習を始めました。

2009(平成21)年1月から約2年間、毎週礼拝後に、教会員が「教会と私」をテーマに交替で証しを語りました。

献堂20周年記念コンサートで

熱唱する本田路津子さん

(2006年10月1日)



恵み深い主に感謝せよ・17

2005(平成17)年1月、小林浩牧師は3月末をもって辞任する意向を表明しました。2月役員会では、「教会は、常に開拓することを使命とする。それには若い牧師の働きが必要であり、…創立百年に向けて新しい牧師と共に歩み出していただきたい。」と辞任理由が述べられました。追分の小倉政応・ひとみ両師も、教団人事により転任することとなりました。

3月20日、小林師一家、小倉師一家の送別会が開かれ、81名が出席して別れを惜しみました。

3月27日、イースター礼拝をもって、小林牧師の札幌における御用が終了しました。

3月28日、第9代牧師として、岡田順一師が福岡から着任しました。翌日には、千葉維保子伝道師が追分に到着しました。

4月3日、岡田師一家と千葉師の歓迎会が行われました。

5月8日には、黒木安信師(東京・浅草橋教会)の司式により、新任牧師の就任式が行われました。

小林浩牧師の辞任前最後の説教

(2005年3月27日)



恵み深い主に感謝せよ・16

2000(平成12)年、教会は創立90周年を迎え、記念行事が行われました。また、創立70周年から10年ごとに発行してきた『証し集』の第三集が、この年発行されました。

2002(平成14)年、ウェスレアン・ホーリネス教会連合はウェスレアン・ホーリネス教団となり、当教会もそれに加盟しました。

そうした中で、教会にとって一つ心配なことが起きました。2002(平成14)年8月、主任牧師小林浩師は脳梗塞のため入院しました。幸い症状は軽く、約3か月の加療後、講壇に復帰しました。

2004(平成16)年、6年後の創立100周年に向けて、記念事業計画委員会が早くも設置されました。

2005(平成17)年、「恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに。」(詩編136:1)が年間聖句に掲げられました。これは、伊藤馨牧師が最後(1961年)に掲げた年間聖句と同じです。

礼拝堂正面左に掲げられた教会標語

(詩編136:1)



恵み深い主に感謝せよ・15

小林浩牧師時代について、特筆すべきもう一つのことは、外部との関係の深まりです。

以前から信徒有志が参加していた「北海道ケズィック・コンベンション」には、教会として関わるようになり、後には事務局を担当するようになりました。

1983(昭和58)年には、さっぽろ雪まつりに協賛して、教会を休憩所として一般開放する「雪まつり伝道」を実施し、以後毎年行いました。

1989(平成元)年には、小林師夫妻が札幌宣教交友会(SSK)に加入。以後、SSK主催のバイブル・キャンプ、青年大会、聖会、セミナーなどに、教会として毎年参加しました。

同じく1989年、札幌聖化大会(現・北海道聖化大会)が開始され、当教会は第1回から参加しました。

1990(平成2)年、市内のホーリネス系3教会合同による弾圧記念早天祈祷会(6月26日)が始まりました。

雪まつり伝道

「コーヒーサービス中」との表示

 



恵み深い主に感謝せよ・14

小林浩牧師の時代は、追分・岩見沢伝道が進展しました。

1976(昭和51)年から信徒有志により月1回開かれていた追分集会は、1980(昭和55)年以降、小林師の指導する集会となりました。1982(昭和57)年には追分伝道50周年記念集会が行われ、70名の出席がありました。

1993(平成5)年7月、追分町本町の医院跡の住宅を借用して会堂とし、追分めぐみチャペルが開所しました。担任教師として峯野良恵伝道師が遣わされ、定住伝道が開始されました。

岩見沢では、1993(平成5)年12月、クリスマス集会が行われ、以後毎年開かれました。1995(平成7)年からはイースター集会も行われるようになりました。

1996(平成8)年、追分に小倉政応・ひとみ師が遣わされました。

2000(平成12)年11月、追分町若草に新会堂(現会堂)が与えられ、献堂式が行われました。

追分めぐみチャペル開所式

1993(平成5)年7月



恵み深い主に感謝せよ・13

1986(昭和61)年11月、新会堂(現会堂)が完成し、12月6日、献堂式が執り行われました。聖歌隊が「みいつあれ」(グノー作曲)を晴れやかに賛美しました。教会内外から201名の出席がありました。

「会堂が伝道する」という言葉がありますが、新会堂ができると礼拝出席者数が増加し、若い人も増えました。1990(平成2)年8月、教会創立80周年記念北海道夏期聖会・記念礼拝が行われました。

1991(平成3)年7月、教会月報『聖流』が創刊されました。1992(平成4)年6月26日、伊藤馨師が戦時中の弾圧の体験などを綴った文章を収録した『恩寵あふるる記』(全三巻)が出版されました。

こうした経過の中で、教会にとって一つの重要な変化がありました。1985(昭和60)年、教会は日本基督教団を離脱し、曲折を経て、1992(平成4)年、ウェスレアン・ホーリネス教会連合の設立に参加しました。

竣工当時の現会堂

1986(昭和61)年11月



恵み深い主に感謝せよ・12

小林浩牧師による宣教活動が軌道に乗ると、次は会堂とオルガンの問題に取り組むことになりました。まず、札幌市からの指導もあり、1980(昭和55)年、屋根の先端に落雪防止柵を取り付けました。1982(昭和57)年7月、ハモンドオルガンを購入し、翌年3月、試弾演奏会を行いました。

1982(昭和57)年11月、臨時総会において、数年後に新会堂を建築することが決定されました。郊外に移転する案もありましたが、同じ場所に建て替えることが神の御旨であると示されました。予定された工費約1億円は、伊藤馨師から受け継いだ献金精神に立ち、借金はせず、予約献金を募ることもせず、自由献金によってすべて満たされました。

1986(昭和61)年4月13日、解体前の会堂で最後の礼拝を行い、54年間使用してきた懐かしい会堂に別れを告げました。新会堂完成までの約7か月間は、信徒宅を仮会堂とし、そこで週ごとの礼拝を守りました。

解体直前の旧会堂

1986(昭和61)年4月



恵み深い主に感謝せよ・11

1979(昭和54)年、牧師不在という事態になり、信徒が一致して教会を守ることになりました。それまで、週報はありませんでしたが、この年の7月から、信徒によって週報の発行が始まりました。加藤省三師(東京・向島教会)が代務者として、月に一度、礼拝説教をされ、その他の主日礼拝では信徒が交替で証しをしました。

1980(昭和55)年4月、待望の第8代牧師小林浩師(当時40歳)が、群馬県高崎から、登紀子夫人と双子の娘さん(小学1年)を伴って着任されました。

若き牧師の着任により、教会は活気づきました。直ちに祈祷会が復活しました。7月には、長らく休止していた日曜学校が再開され、8月には夏期学校が行われました。10月には、黒木安信師(東京・浅草橋教会)を招いて、教会創立70周年記念特別伝道会が行われました。

そうした中で、5月には伊藤須磨師が93歳で召天され、翌月、記念礼拝が行われました。

日曜学校夏期学校

1980(昭和55)年8月



恵み深い主に感謝せよ・10

伊藤須磨師は、1961(昭和36)年に74歳で第7代牧師となり、以後約18年間その任を担いました。後年は講壇に据え付けた椅子に座り、マイクを使って説教されました。そのかくしゃくとした様子が新聞紙上で紹介されたこともあります。

須磨師時代の教会の諸活動は専ら教会内に向いていましたが、夏期聖会やクリスマス聖会は毎年盛大に行われました。また、信徒有志は北海道ケズィック・コンベンションや日本福音クルセード、朝祷会など、外部の集会に積極的に参加しました。

1965(昭和40)年、奏楽の音色がリードオルガンからエレクトーンに変わりました。

1976(昭和51)年、信徒有志による追分集会が再開されました。

1979(昭和54)年、伊藤須磨師は長期入院され、教会は事実上の無牧状態となりました。

北海タイムス紙

1973(昭和48)年9月15日付



恵み深い主に感謝せよ・9

1961(昭和36)年の新年礼拝において、伊藤馨牧師は、「恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに。」(詩編136:1)を年間聖句に掲げました(当時は文語訳)。この聖句は、後に教会標語となりました。

同年2月14日、伊藤牧師は巡回伝道先の滝川市において、心筋梗塞のため急逝しました。74歳でした。18日、雪中にもかかわらず約230名が告別式に参列し、霊感溢るる中、慕わしき神の大勇士を天に送りました。

その後、日本基督教団(当時所属)の総会議長から、主任担任教師招聘に関する同意書が届き、伊藤馨師夫人の須磨師が第7代牧師となりました。須磨師は、「汝等しづまりて我の神たるをしれ」(詩編46:10、文語訳)を愛誦し、信徒を静かに導きました。

1962(昭和37)年9月、市営平岸霊園に教会墓堂が完成し、献堂式と最初の納骨式が行われました。伊藤馨師も、この時納骨されました。

教会墓堂完成、献堂式・納骨式

1962(昭和37)年9月23日

 



恵み深い主に感謝せよ・8

1947(昭和22)年9月の会堂類焼の後、3期3年かけて修築工事が行われました。費用は自由献金で満たされました。屋根に窓が造られ、3階が改造されて宿泊室ができました。

毎年夏には夏期聖会が行われ、日本全国や、時には北米からも、優れた霊的指導者たちが講師として招かれました。この聖会には全道から出席者があり、3階の宿泊室が用いられました。

講壇を所狭しと動き、全身をもって語る伊藤馨牧師の説教は、会衆の心をとらえました。伊藤牧師は、月刊『新創造』を主筆し、信徒に信仰の糧を提供しました。また、戦前2回、戦後1回の計3回、招かれて渡米伝道に赴きました。

1960(昭和35)年8月、東京・淀橋教会小原十三司牧師夫妻を主講師に招き、教会創立50周年記念北海道夏期聖会が盛大に行われました。これが伊藤牧師の指導する最後の夏期聖会となりました。

教会創立50周年記念北海道夏期聖会

1960(昭和35)年8月

 



恵み深い主に感謝せよ・7

1945(昭和20)年12月に教会新結成の後、礼拝などの定期集会が再開されました。伊藤馨牧師は当教会で奉仕するのみならず、道内各地を訪れ、またしばしば全国の教会を巡回して、教職や信徒を励ましました。

1946(昭和21)年、伊藤牧師は札幌刑務所から教誨師の委嘱を受け、刑務所伝道を開始。幾多の悔改者が起こりました。

1947(昭和22)年6月26日、弾圧記念集会が行われました。「弾圧記念」を冠した集会はこれが最初です。9月には札幌霊性集会が開かれました。

同年9月30日深夜、緊急事態が発生しました。隣家から出火し、教会堂に燃え移ったのです。間もなく消防車により消火されましたが、会堂が半焼してしまいました。

このとき、戦時中に「労務報国会」が神棚を祀っていた箇所が焼かれました。教会員は、偶像で汚された箇所を神が火できよめられたと知り、感謝しました。

札幌霊性集会

1947(昭和22)年9月5~7日

類焼の3週前



恵み深い主に感謝せよ・6

伊藤馨牧師の獄中生活は過酷をきわめました。手足や顔面は凍傷に冒され、栄養もとれず、天命を待つ状態でした。しかし、面会に訪れた須磨夫人に叱咤され、教会や信徒のために祈り直したのでした。

伊藤牧師はそうした獄中生活を恩寵ととらえました。その一つに献金のことがあります。「献金と称してどれ程の金を集めたか」との取り調べを受け、真の献金精神を神から示されたのでした。このことが、後の教会復興にあたり、月定献金を廃し、自由献金制度を導入する決断につながりました。

1945(昭和20)年10月7日、伊藤牧師は3年3か月振りに釈放されました。そして12月2日、教会は再発足することとなり、旧会員も新たに入会手続きを済ませ、札幌新生教会が新結成されました。その際、伊藤牧師が獄中で示された献金制度の革新が確認されました。

第6代牧師 伊藤 馨 師

1954(昭和29年)、68歳



恵み深い主に感謝せよ・5

1941(昭和16)年12月には米国との戦争が始まり、国家による宗教統制が厳しくなりました。

1942(昭和17)年6月26日には、全国のホーリネス系教会に対する一斉弾圧が行われ、当教会の伊藤馨牧師も囚われの身となりました。

1943(昭和18)年、「宗教結社禁止令」が発動され、教会での集会が禁止されました。しかし、最後の礼拝となった4月11日、一人の勇敢な姉妹が立ち上がり、「皆さん、来週から私の家に来てください!」と叫びました。

こうして、藻岩山麓(現・中央区伏見二丁目)にあった信徒宅でその後も集会が続けられ、当教会の歴史は途切れることなく続いたのでした。

集会の行われなくなった会堂は、警察の要請により「労務報国会」という労働組織の事務所として使用され、神道の神棚が祀られました。キリスト教会にとっては、実に耐え難いことでした。

集会禁止となった最後の礼拝出席者

1943(昭和18)年4月11日



恵み深い主に感謝せよ・4

平屋の会堂(元市営住宅)はすぐに手狭になりました。そこで、青年たちを中心に会堂新築の機運が盛り上がり、1932(昭和7)年には三角屋根の新会堂(木造)が建てられました。

新会堂でのクリスマスには、高い天井まで届く大きなツリーが毎年飾られました。クリスマスの夜に開かれた大人と子供の合同聖会では、板の間にゴザが敷かれ、大勢の子供たちが集まりました。

当教会は1922(大正11)年から「札幌ホーリネス教会」と称していましたが、1936(昭和11)年には「札幌聖教会」と名称を改めました。

さらに1941(昭和16)年、国家の宗教統制により創設された日本基督教団への編入を余儀なくされ、「札幌新生教会」と名乗るようになりました。「新しく生まれて、我らの信仰と使命に新しく出発する」という意味が込められました。

札幌ホーリネス教会

1932(昭和7)年に竣工した4代目の会堂



恵み深い主に感謝せよ・3

1927(昭和2)年7月には、札幌鉄道病院(現・JR札幌病院)で週1回ずつ5回の集会がもたれ、20~100名が出席。看護師たちが次々と救われ、入院患者にも伝道されました。これはその後、看護師や患者の出身地であった岩見沢や追分で伝道が開始されるきっかけとなりました。

1928(昭和3)年頃、北海タイムス社(現・北海道新聞社)から土地売却を求められました。会堂が古く狭かったこともあり、藤久先生は売却を決断、大通西11丁目(現在地)にあった市営住宅2棟を購入して、これを会堂「祈ノ家」と牧師館としました。

1930(昭和5)年、藤久先生は東京へ転任となり、島根県松江から伊藤馨先生が第6代牧師として赴任されました。伊藤先生は児童伝道に使命をもち、子供向け伝道書『小兵士』を発行し、9か所の信徒宅で児童聖書学校を開きました。

3代目の会堂(大通西11)

現在地です。1930年に撮影

 



恵み深い主に感謝せよ・2

1913(大正2)年、時計台の筋向い(北1西3)にあった組合教会(現・札幌北光教会)が移転するので、森五郎師はその会堂を300円で購入して補修。これが2代目の会堂、第2次札幌福音伝道舘となりました。

その後、1916(大正5)年には第2代牧師伊藤文康先生、1917(大正6)年には第3代牧師工藤玖三先生、1923(大正12)年には第4代牧師池田長十郎先生、1926(大正15)年には第5代牧師藤久眞吾先生が赴任され、この会堂で16年間、5人の先生が牧会されました。

藤久先生の時代には、中田重治先生を招いて時計台で聖会を開き、約400名が出席。多くの人が入信したようです。

当時の洗礼式は、豊平川で浴衣のようなものを着て、全身浸礼で行われました。

教会2階の書棚に、藤久先生の作られたガリ版刷りの週報があります。

2代目の会堂(北1西3)

現在、北海道新聞社のある場所です

工藤師時代に撮影

 



恵み深い主に感謝せよ・1

1910(明治43)年、日本ホーリネス教会の創始者中田重治先生は、森五郎先生(当時23歳)に札幌での開拓伝道を命じました。

森先生は小松まつよ姉と結婚して札幌に赴任、10月に苗穂東五丁目(現・中央区北3東5)の借家に「東洋宣教会札幌福音伝道舘」の看板を掲げ、伝道を開始されました。

これが札幌新生教会の創立となりました。

札幌福音伝道舘