メッセージ 2017年4月〜6月


2017625日 弾圧記念礼拝 岡田順一牧師

「希望に至る苦難」ローマの信徒への手紙 515

「苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。」(ローマの信徒への手紙5:34

 

①キリストによる平和。

「主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、」(1)

世界の平和の実現のためには神との平和が必要です。「神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました」(コロサイ1:21)神から離れ、神に敵対する心から悪い行いが生じます。神との平和が隣人との平和をもたらします。

 

②信仰による希望。

「キリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ」(2)

「導き入れられ」とは高貴な人の前に卑しい者が紹介される言葉です。キリストによって私たちは救われ、今あるを得させていただきました。キリストにこそ希望があります。

 

③希望に至る苦難。

「苦難をも誇りとします」(3)

その理由は「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」からです。神は私たちへの愛のゆえに苦難の向こう側に必ず希望を用意してくださっています。神の愛のゆえに苦難も恵みと変えられるのです。


2017618日 礼拝 岡田順一牧師

「命へ導く神」創世記 4617節、2830

「イスラエルはヨセフに言った。『わたしはもう死んでもよい。お前がまだ生きていて、お前の顔を見ることができたのだから』」(創世記46:30

 

①過去の恵みに学ぶ。

「ベエル・シェバに着くと、・・いけにえをささげた」(1)

ヤコブはエジプトに行くに際して祈りの時を持ちました。それはアブラハムは祈らずエジプトに下って失敗し(12:10)、イサクは祈ってエジプトに下らず祝福されたからです(26:12)。ヤコブは過去に学び、神に聞いてからエジプトへ出発しました。

 

②神の導きに従う。

「わたしがあなたと共にエジプトへ下り」(4)

神はイサクにはエジプト行きをとどめ、ヤコブには許可しました。エジプトが良いか悪いかではなく、神の導きこそが私たちにとっての第一の基準です。神が共に行ってくださることが幸いです

 

③命に導く神を信じる。

ヨセフと再会したヤコブは「わたしはもう死んでもよい」と人生への満足を述べました。神は従う者に後悔無き人生を歩ませてくださいます。それはヤコブにとどまることなく、神は命に導き民族の祝福を与えました(出エジプト記1:17)


2017611日 特別伝道礼拝 大友正幸先生

「幸せな者」マタイによる福音書 53

「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」(マタイによる福音書5:3)

 

「幸福なるかな、心の貧しき者。天國はその人のものなり。」(文語訳)

軍人であった父からは「貧しくても心の豊かな人になりなさい」と教えられて育ったため、この言葉の意味が分からなかった。現在の新共同訳聖書の前の共同訳聖書は「ただ神により頼む人々は幸いだ」と心の貧しさの内容を分かりやすく翻訳していました。心の貧しい人とは本当に神にのみより頼む人なのです。

 

東日本大震災が発生した時、岩手県大船渡市のクリスチャン医師の山浦玄嗣(はるつぐ)さんは、東北の人たちに福音を伝えるため自ら新約聖書を翻訳し「ケセン語訳新約聖書」を発刊しました。そこには「頼りなく望みなく心細い人々は幸せだ。神様のふところにしっかり抱かれるのはその人だ」と訳されています。それを読んだ人々の中に薬の足りない中で自分の薬を他者にゆずるという、いたわりの愛が起こったとのことです。ただ神により頼む時、神のふところに抱かれ、神の愛の注ぎを受けることができます。    


201764日 ペンテコステ礼拝 岡田順一牧師

「命をもたらす聖霊」使徒言行録 214

「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。」(使徒言行録2:2

 

①真の教会を生み出した聖霊。

聖霊降臨前の弟子たちはバラバラの状態でした。しかし主イエスによる聖霊降臨の約束(1:4)を聞いた後には「心を合わせて熱心に」祈り(1:14)、「一同が一つになって集まっていると」(1)、聖霊が注がれました。聖霊降臨後に誕生した初代教会は「信者たちは皆一つになって」(44)「毎日ひたすら心を一つにして」(46)歩む教会でした。聖霊がそこに集う人々の自我を砕き、愛によって一つにし、真の教会を生み出しました。

 

②命をもたらす聖霊。

「激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ…一同は聖霊に満たされ」(2,4)ました。聖霊は風に象徴され、風の同義語は「息」と訳されています。最初の人間アダムは神によって鼻に命の息を吹き入れられて生きる者となりました(創世記2:7)。復活された主は弟子たちに息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」と言われました(ヨハネ20:22)。神の息である聖霊が尊ばれ、満たされてこそ生き生きとした教会となることが出来ます。 


2017528日 礼拝 岡田順一牧師

「人生の支配者」創世記 45115

「わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。」(創世記45:8

 

①摂理の神。

ヨセフは憎まれ、殺されかかり、売られ、訴えられ、投獄され、人に忘れられました。しかしその苦難のすべての歩みの上に神の御手がありました。摂理の神とは人生の苦難の上にいます神のことです。迷路のような人生を神は安全に導かれます。

 

②力ある神。

ヨセフはエジプトで誘惑されましたが神は彼に誘惑に勝つ力を与えました。投獄され人に忘れられましたが神は彼に忍耐力を与えました。また神は過去の人の仕打ちを忘れる力をも彼に与えました。神は私たちにも必要な力を与えてくださいます。

 

③人生を支配する神。

「神が、わたしを全エジプトの主としてくださいました」(9)

ヨセフは自分が手にした支配権を神からのものと信じていました。その信仰の秘訣は「神が、わたしを」とありますように神と自分を常に結び合わせ、神を自分の人生の愛による支配者とすることです。「主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならない」(コリント一15:58)ことを信じましょう。    


2017521日 礼拝 岡田順一牧師

「愛による忍耐」創世記 44134

「何とぞ、この子の代わりに、この僕をご主君の奴隷としてここに残し、この子はほかの兄弟たちと一緒に帰らせてください。」(創世記44:33

 

一人を愛する心。

ヨセフは末の弟のベニヤミンの袋に銀の杯を入れ彼に盗みの罪を着せ、兄たちに「杯を見つけられた者だけが、わたしの奴隷になればよい。ほかのお前たちは皆、安心して父親のもとへ帰るがよい」(17)と告げました。ヨセフは兄たちに自分を犠牲にして一人を愛する心を持っているかを試しました。兄たちは「共に、御主君の奴隷になります」(16)とひれ伏しました。

 

②神の繰り返しのチャンス。

ヨセフが兄たちに求めたことは兄たちがヨセフにしたことの繰り返しでした。兄たちは自分たちの怒りをヨセフ一人に負わせエジプトに追放しました。ヨセフはベニヤミンに罪を着せることを通して兄たちにやり直すチャンスを与えたのです。神も私たちに繰り返しのチャンスを与えてくださいます。かつて神のチャンスを逃したとしても必ず神の恵みの繰り返しがあることを信じて愛による忍耐をもって待ち望むべきです。    


2017514日 母の日礼拝 岡田順一牧師

「恵まれた母となるために」出エジプト記 20812

「助産婦たちは神を畏れていたので、神は彼女たちにも子宝を恵まれた。」(出エジプト記1:21

 

ヨセフの計らいでエジプトに移住したヤコブ一家は、最初七十人でしたが百万人を越える民族となりました。驚異を感じたエジプト王はイスラエルの人々がこれ以上増えないように産まれてくる男の子を皆殺すことを助産婦に命じました。しかしシフラとプアはそれに従わないことを通して神の恵みを与えられました(20)

 

①神を畏れる母。

「助産婦はいずれも神を畏れていたので…男の子も生かしておいた」(17)

彼女たちは助産婦としての仕事を神から与えられた天職として受け止めていたので命令を拒みました。また彼女たちは出産の現場に何度も立ち会うことを通して神による命の授与という奇跡を見続けました。神を畏れる母は幸いです。

 

②子のために命を懸ける母。

彼女たちは命懸けで王の命令を拒みました。母たる者は子のためには肉体の命のみならず魂の命のためにも命を懸けるべきです。魂の救いのために命懸けで祈るということです。そういう母のいる家庭を神は必ず祝福されます。 


201757日 礼拝 岡田順一牧師

「私たちへの神の求め」創世記 43114

「どうか、全能の神がその人の前でお前たちに憐れみを施し、もう一人の兄弟と、このベニヤミンを返してくださいますように。」(創世記43:14

 

①私のベニヤミンを求める神。

ヨセフは兄たちに末の弟のベニヤミンをエジプトに連れてくるように繰り返し要求しました(42:15,16,20)。それを聞いた父ヤコブは「この子だけは、お前たちと一緒に行かせるわけにはいかぬ」(42:38)と拒否しました。「ベニヤミン」とは「これだけは神様でも譲れない」と思っているものです。神は「私のベニヤミン」を献げることを求めておられます。

 

②私のベニヤミンを献げる者の祝福。

「どうしても子供を失わねばならないのなら、失ってもよい」(14)とヤコブは決心してベニヤミンを神に委ねました。ヤコブはかつて神から「イスラエルと呼ばれる」(32:29)との約束を与えられていました。43章においてヤコブは終始イスラエルと呼ばれました。「イスラエル」とは神の支配、神が責任をもって導いてくださることです。神は最も大切なものを神に献げる者を、責任をもって守り導いてくださいます。


2017430日 礼拝 岡田順一牧師

「本当に正直な人」創世記 42125

「ヨセフは彼らから遠ざかって泣いた。それからまた戻って来て、話をしたうえでシメオンを選び出し、彼らの見ている前で縛り上げた。」(創世記42:24

 

ヨセフに罪を犯した兄たちを主はどのように導いたでしょうか。

 

①飢饉という試練を通して。

イスラエルが飢饉になった時、ヤコブは息子たちをエジプトに食糧の買い出しに遣わしました。飢饉を通してヨセフと兄たちは再会しました。しばしば人生の飢饉に遭遇して初めて自らの過ちを知り、罪の自覚に導かれます。

 

②牢獄という静寂の中で。

ヨセフはあえて兄たちを牢獄に入れました。兄たちはヨセフのことを忘れたように生活していましたが、牢獄の静寂を通してヨセフへの罪が赦されていない現実を示されました。私たちも赦されていない罪の記憶はないでしょうか。

 

③神の愛を知る時。

兄たちにとってのヨセフは私たちにとっての神の存在です。ヨセフは兄たちに厳しく接しましたが、兄たちを愛して涙を流しました。私たちが試練の中にいる時も神の愛は注がれていることを忘れることなく、神の前に正直でありましょう。


2017423日 礼拝 岡田順一牧師

「キリストの昇天」マルコによる福音書 161420

「主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。」(マルコによる福音書16:19

 

復活された主イエスが天に上げられた意味を学びましょう。

 

①聖霊降臨のため。

「イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました」(使徒言行録2:33)

主は「あなたがたの上に聖霊が降る」(使徒言行録1:8)と言われた直後に天に昇天されました。それは聖霊降臨の約束の実現のためだったのです。

 

②信仰者が天に希望をもつため。

「イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた」(使徒言行録1:10)

主の昇天を目撃した人々の心にその光景が焼き付けられたように、主の復活を信じる信仰者の心も天に向けられ、天への希望に生きることができます。

 

③キリストが執り成し手となるため。

「この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります」(ヘブライ7:25)

主イエスは天に昇天された後、神に祈るすべての人々のために父なる神に執り成していてくださいます。ここに希望があります。


2017416日 イースター礼拝 岡田順一牧師

「キリストの復活の事実」マルコによる福音書 1618

「あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。」(マルコによる福音書16:6)

 

①キリストの死の事実。

多くの人は主をこの地上にあって神の国をもたらす存在として期待していました。しかしアリマタヤのヨセフは主の死を確認した上でそのご遺体を引き取りました。彼は「神の国を待ち望んで」(15:43)いました。その神の国は死からの復活によって信じる者に与えられる永遠の命の希望だったのです。

 

②天使の証言による事実。

クリスマスの日、羊飼いたちに天使は「救い主がお生まれになった」(ルカ2:11)と歴史的事実を告げました。それと同じ確かさをもって婦人たちに天使は「あの方は復活なさって、ここにはおられない」と主の復活の事実を告げました。

 

③人々の証言による事実。

「イエスは…復活して…マグダラのマリアに御自身を現された」(9)彼女が喜びをもって主を証しするためでした。エマオの途上の二人に御自身を現されました(12)。復活の事実の聖書の裏付けを知らせるためでした(ルカ24:27,32)。


201749日 棕櫚の主日礼拝 岡田順一牧師

「主イエスの十字架」マルコによる福音書 152139

「イエスは言われた。『これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。』」(マルコによる福音書14:24

 

①キリストに対する人間の罪。

主を十字架に追いやった人間の罪は、第一に有力者たちのねたみの罪です(1)。彼らは礼拝すべき主を冒涜し辱めました(6365)。第二にユダによる貪欲の罪です(1011)。彼は、本来は愛情表現であるはずの接吻によって主を裏切りました(4346)。第三にペトロによる高慢の罪です。彼は呪いの言葉さえ口にして主を否定しました(6672)。罪は人間を狂わせます。

 

②罪人への神の愛。

主は十字架における血潮は「多くの人のために流されるわたしの血」と言われました。「多くの人の過ちを担い背いた者のために執り成しをしたのはこの人であった」(イザヤ53:12)と、救い主がすべての人の罪を身に負われたのです。さらに主は流されし血潮は「契約の血」と言われました。十字架を我がためと信じる者に「わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない」(エレミヤ31:34)と主は契約を結んでくださいました。その動機は私たちへの神の「とこしえの愛」(エレミヤ31:3)です。


201742日 復活前第二主日礼拝 岡田順一牧師

「救い主である王」マルコによる福音書 11110

「前を行く者も後に従う者も叫んだ。『ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。』」(マルコによる福音書11:9

 

①真の王としての入城。

主イエスは子ろばに乗ってエルサレムに入城されました(7)。ろばは卑しい乗り物ではなく王族の乗り物であり、特に平和の使者として向かう時に用いられました。主イエスは真の平和をもたらす王としてエルサレムに入城されたのです。レントの中、私たちは十字架にかかられた主イエスを平和をもたらす真の王、私たちの王として心の王座にお迎えしましょう。

 

②裁き主である王としての入城。

主はいちじくの木を呪って枯らせました(21)。いちじくはイスラエルの象徴です。やがて主に対して「十字架につけよ」と呪いの言葉をかけて罪を犯す人々に警告されたのです。裁くことが主の御心ではありません。主は人々に「神を信じなさい」(22)と信仰を求め、「祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい」(24)と祈りを求め、「恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい」(25)と悔い改めと赦しを求めました。私たちも信仰と祈りと悔い改めを主にささげましょう。