審判する者


札幌新生教会第6代牧師

伊藤 馨 著『恩寵あふるる記』第一巻より

【昭和十八年十月】

判決を毎日のように、憂鬱な心で待つことになった。裁かるる身とはいやなものだ。裁かるる立場に立たせられていることは、甚だ重苦しいものと経験した。イエスは「裁くな」と教えたもうたことを深く味わったのである。

さらにまた私は、

「もし私は信仰なく、救われて居らぬとしたら今の私は、どんな身分、立場にいたか」

と考えたりした。ジョン・バンヤンは「獄吏に引かるる囚人は私であったかも知れぬ」と言ったというが、私もそうであったかも知れぬ、否、今私はこの立場に立たせられて、もし私は信仰なく救われていないとしたら、罪ありて裁かるる者になっていたのかも知れぬと考えたのである。私の魂は感謝であふれ、大きな慰めに充たされたのである。

さらに私は「審判する者」その座にすわって人を審判する者のことをも考えさせられたのである。

審判者なるものは、本質には貴い職務であるが非常に重大な責任と義務がある。誤れる審理、過った審判を下したときの責任は必ずその人に問われるわけである。国家の法廷ばかりでない、われわれの日常の生活の中にも、しばしば審判の座が設けらるることがある。そして法服をまとわざる法官のつとめをせねばならぬ時がある。しかも誤審盲判の多いこと、時としては「だらけ」であったりすることを聞く。

そんなとき、審判の責任を問われて、「知らぬ、存ぜぬ」「間違ってすまぬ」「神ではないからナ」などと言い訳は許されぬはずである。

イエスは、

「裁くなかれ」(マタイ七の一)

と仰せられ、パウロも、「誰も裁くなかれ」と、然り、審判は神のみに…。

法官は、審理審判が職責であり、義務である。されば聡明であり、公明、無私の人でなくてはならぬのである。されば、かかる立場にあるものは、天を畏れ、上よりの監視、指導を仰ぐ人でなくてはならぬはずである。以上は裁かるる者の立場に立たねば味わわれぬことであるかも知れぬ。