2018年3月25日 棕櫚の主日礼拝 岡田順一牧師
「十字架上の赦しの祈り」ルカによる福音書 23章32〜43節
「イエスは言われた。『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。』」(ルカによる福音書23:34)
①キリストを十字架につける人間の罪。
「人々はイエスを十字架につけた」(33)「人々」とは全人類のことです。十字架につけた人々の中に私も含まれていることを自覚すべきです。人々は繰り返し「自分を救ってみろ」と主に言いました。この言葉の中に人間の罪があります。第一に自分さえ良ければとの自我の罪。第二に神の独り子を侮辱する神への敵対心の罪。第三に神の愛を無にしようとする罪です。この人々の罪を我が罪と認めるべきです。
②人間の罪を赦す神の愛。
主は十字架上で「父よ、彼らをお赦しください」と祈られました。「彼ら」とは全人類のことです。その中に自分も含まれていることに心から感謝しましょう。さらに主は「自分が何をしているのか知らないのです」と言われました。多くの人間は罪の結果、滅びに向かうことを知りません。しかし信じるなら一緒に十字架につけられた強盗のように「今日わたしと一緒に楽園にいる」(43)と御国に凱旋することができます。
2018年3月18日 礼拝 岡田順一牧師
「イエスのまなざし」ルカによる福音書 22章54〜62節
「主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、『今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう』と言われた主の言葉を思い出した。」(ルカによる福音書22:61)
①変わらないまなざし。
人のまなざしは隣人への評価が変わる時、変わってしまいます。しかしイエスのまなざしは私たちへの永遠の愛によって永遠に変わらないまなざしを向けてくださいます。
②期待のまなざし。
「シモンに『…漁をしなさい』と言われた。シモンは『…しかし、お言葉ですから』」(5:4~5)とペトロは主の期待に応えました。「シモンに言われた。『…あなたは人間をとる漁師になる』…彼らは…すべてを捨ててイエスに従った」(5:10~11)とペトロは主の期待に応えて他者にも感化をもたらしました。
③祝福をもたらすまなざし。「あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう」(34)と主は予告されました。しかしそれに先立って「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った」(32)とペトロに言われました。主のまなざしには祈りが伴っています。その祈りが祝福に至らせるのです。
2018年3月11日 礼拝 岡田順一牧師
「神の召命への道」ルカによる福音書 5章1〜11節
「イエスはシモンに言われた。『恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。』」(ルカによる福音書5:11)
①召命の基本である御言葉への信仰。
主イエスは漁師たちに「漁をしなさい」(4)と言われました。彼らは前夜不漁を経験していましたが「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と主の言葉に従いました(5)。その結果は大漁でした。自分の経験よりも神の言葉を信じていくことが、神の召命に応える基本です。
②神の召命に応える自分を知る必要。
主の言葉に従って大漁を経験したペトロは「主よ、わたしから離れてください」(8)と言いました。彼にとって漁をすることは唯一の誇りでした。しかし主の言葉は彼の経験、誇りをはるかに越えていました。ペトロは自らの弱さを知らされました。神は弱い私たちを用いてくださいます。
③神の召命に応える信仰。
主はペトロに「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」と招かれました。自らの弱さを恐れるペトロに主は、召命を与えた主御自身が常に共にいて、その任を果させてくださると約束してくださいました。
2018年3月4日 礼拝 岡田順一牧師
「イエスの恵み深い言葉」ルカによる福音書 4章14〜30節
「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。『この人はヨセフの子ではないか。』」(ルカによる福音書4:22)
①恵みをもたらすキリスト。
主イエスは恵み深い言葉を貧しい人、捕らわれている人、目の見えない人、圧迫されている人(18)に語りました。それは心の貧しい人、罪に捕らわれている人、神に目が閉ざされた人、この世に圧迫されている人、神を必要としている人です。恵み深い言葉は信じる者の上に実現していきました。
②神の恵みを失う不信仰。
多くの人は主の言葉に驚きつつも「この人はヨセフの子ではないか」と言って受け入れませんでした。そこで主は二人の人物を紹介しました。「大飢饉が起こったとき…エリヤは…サレプタのやもめのもとにだけ遣わされた」(25~26)このやもめは最後の食料を神に従ってエリヤに差し出して祝福されました。「重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった」(27)ナアマンは自分のプライドを捨てて預言者エリシャの言葉に従い癒されました。へりくだって神を信じるなら神の祝福を得、不信仰は恵みを失います。
2018年2月25日 礼拝 岡田順一牧師
「誘惑に勝利する道」ルカによる福音書 4章1〜13節
「イエスはお答えになった。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」(ルカによる福音書4:8)
①誘惑を受ける意味。
主は「わたしたちの弱さに同情できない方ではなく…あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われた」(ヘブライ4:15)「あらゆる点」とは悪魔が私たちを誘惑する三つの点「肉の欲、目の欲、生活のおごり」(ヨハネ一2:16)です。誘惑を受ける時、誘惑に勝利された主の同情に心を向けるべきです。
②肉の欲への勝利。
空腹の主への誘惑に対して主は「人はパンだけで生きるものではない」(4)と、肉体の健康のためのパンと魂の健康のための神の言葉が人間には必要であると答えられました。
③おごりへの勝利。
「一切の権力と繁栄とを与えよう」(6)との誘惑に対して主は「ただ主に仕えよ」(8)と答えました。ただ主だけが与えてくださるアガペーの愛以上に必要なものはないからです。
④目の誘惑への勝利。
自分の願いどおりになることを見る誘惑に対して主は「主を試してはならない」(12)と答えました。私たちはどこまでも主の最善を疑うことなく主を信頼すべきです。
2018年2月18日 礼拝 岡田文美佳副牧師
「主に受け入れられる奉仕」マルコによる福音書 14章3〜9節
「この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。」(マルコによる福音書14:8)
ベタニアの一人の女性がイエス様にナルドの香油を注いだ尊い奉仕は、世界中の人が知るところの奉仕となりました。
①誰に向かう奉仕ですか?(主に!)
人々は女性に「こんなに香油を無駄使いしたのか」(4)と厳しく咎め女性の奉仕を否定しました。人々の声が大きく私に届く時があります。でも大切なのは、「わたしに・・してくれた」(6)と仰る主に向かっているかどうかです。
②時にかなった奉仕。
「わたしはいつも一緒にいるわけではない」(7)私たちの奉仕に当てはまる時が求められることがあります。すべてを知っておられる主に問いつつ、今を生かして歩める者としていただきましょう。
③イエス様がわたしの奉仕を受け止めてくださいます。
女性の奉仕を「良いこと」(6)と受け止められました。「良いこと」は「すばらしい」「美しい」を意味する言葉です。イエス様は私たちの小さなでも精一杯の「できること」(8新改訳)を意味あるものとして受け止めてくださいます。私に示される主イエス様への奉仕を臆せず、大胆にさせていただきたいと願います。
2018年2月11日 伝道礼拝 岡田順一牧師
「人をいやす神の言葉」ルカによる福音書 4章31〜44節
「イエスが枕もとに立って熱を叱りつけられると、熱は去り、彼女はすぐに起き上がって、一同をもてなした。」(ルカによる福音書4:39)
①一人一人を愛するキリスト。
主イエスが受洗された時、天から「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が聞こえました。これは主イエスだけではなく受洗したすべての人への言葉でした。すべてのキリスト者は神の愛する子なのです。「イエスはその一人一人に手を置いていやされた」(40)主イエスもまた一人一人を愛し、一人一人の状況を知ってそれぞれのために相応しい祈りをささげました。今日も祈り続けておられます。
②一人一人に相応しい言葉を与えるキリスト。
「イエスが、『黙れ。この人から出て行け』とお叱りになると、悪霊はその男を人々の中に投げ倒し、何の傷も負わせずに出て行った」(35)悪霊につかれた男も主イエスの言葉で悪霊は追い出されました。熱病に苦しんでいたペトロのしゅうとめも主イエスの言葉によっていやされました。そのいやしは体のいやしだけではなく「一同をもてなした」とあるように魂もいやされて良き奉仕者となりました。
2018年2月4日 礼拝 岡田順一牧師
「天に届く祈り」ルカによる福音書 3章21〜38節
「イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。」(ルカによる福音書3:21~22)
①主イエスの受洗の意味。
罪無きキリストが洗礼を受けられた意味は罪人である私たちと一体となるためでした。主イエスは大勢の人々と一緒に受洗され、私たち罪人と同じ立場に立たれました。「『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」(22)それは神の御子主イエスと受洗して神の子となった私たちが一体となったことの証しの御声でした。
②祈りを生涯の仕事とされたイエス。
「イエスも洗礼を受けて祈っておられると」受洗された主イエスが最初にされたことは祈りでした。祈りの結果、天が開け、聖霊が降りました。この出来事は主イエスの生涯に渡って継続されました。主イエスが十字架上で最後の祈りをささげた時「神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた」(23:45)これはすべての信仰者に対して主イエスを模範として祈りを生涯の仕事とすることが出来るようになった証しでした。
2018年1月28日 礼拝 岡田順一牧師
「キリストの証人」ルカによる福音書 3章1〜20節
「ヨハネは皆に向かって言った。『わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。』」(ルカによる福音書3:16)
①ヨハネの悔い改めの説教。
「ヨハネは…罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」(3)
神はヨハネに悔い改めを語る使命を与えました。ヨハネが語った悔い改めの内容は「谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる」(5)。谷とは劣等感です。山と丘とは高慢です。神を考えに入れない劣等感、高慢こそ罪の根本です。罪を悔い改めることを通して劣等感は神の恵みによって埋められ、高慢はキリストに似ることを通して低くされるのです。
②キリストの証人であるヨハネ。
ヨハネがキリストを証ししたその証しは謙遜な証しでした。彼はキリストについて「わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない」と語り「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」(ヨハネ3:30)と語りました。渡辺善太先生が「証し人というのは、なくてはならないが、あってはならない者である」と言われたようにキリストだけを残すことです。
2018年1月21日 礼拝 岡田順一牧師
「共におられる救い主」ルカによる福音書 2章39〜52節
「イエスは言われた。『…わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか』」(ルカによる福音書2:49)
①救い主と共に歩む幸い。
イエス様が十二歳になり、両親と共に過越祭に行った時、両親はイエス様を見失ってしまいました。母マリアは見つけだしたイエス様に「お父さんもわたしも心配して捜していたのです」(48)と言いました。「心配して」と同じ原語は「炎の中でもだえ苦しんでいます」(16:24)の「もだえ苦しむ」で「地獄の責め苦」を表す言葉です。イエス様を見失うということは地獄の責め苦にあう程のことなのです。インマヌエル(神は我々と共におられる)なるイエス様と共に歩むことは幸いです。
②救い主と共なる成長。
「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された」(52)
イエス様は霊的成長において「神と人とに愛されました」。これは私たちも目指すべき成長です。
「両親に仕えて」(51)
隣人に仕える生き方こそ人に愛される秘訣です。
「自分の父の家にいるのは当たり前だ」
礼拝厳守、神から託された自分の使命を果たすことこそ神に用いられ愛される秘訣です。
2018年1月14日 礼拝 岡田順一牧師
「救い主に導く聖霊」ルカによる福音書 2章22〜38節
「エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。」(ルカによる福音書2:25)
①神に選ばれた人の使命。
「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」(ヨハネ1:11)
救い主を受け入れることの難しい世にあってシメオンは信仰あつく救い主を待ち望み、アンナは「神殿を離れず、…夜も昼も神に仕えてい」(37)ました。今日も少数であっても信仰を貫き、使命を果す存在こそ尊いのです。
②聖霊に導かれて歩む。
シメオンについて「聖霊が彼にとどまってい」(25)ました。シメオンに対する聖霊の働きは「イスラエルの慰められるのを待ち望み」とありますが第一に聖霊は愛する民の救いを待ち望む信仰を与えます。
「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた」(26)
第二に聖霊は生死をも神に任せる信仰を与えます。
「霊に導かれて…両親は…イエスを連れて来た」(27)
第三に聖霊はキリストに私たちの心を向かわせます。この年も聖霊に導かれて歩みましょう。
2018年1月7日 新年礼拝 岡田順一牧師
「祈りに答える神」ルカによる福音書 1章1〜25節
「天使は言った。『恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。』」(ルカによる福音書1:13)
①ルカによる福音書について。
(著者)ルカは使徒言行録も記し、この二つの書物は「ルカ文書」と言われます。パウロを助け、医師として教養ある人でした。
(目的)執筆目的は「わたしたちの間で実現した事柄」(1~2)である預言どおりの救い主の誕生、全人類の救いがイエス・キリストの御生涯を通して成就されたことを伝えることです。
(あて先)「敬愛するテオフィロさま」(3)と使徒言行録と共にあて先はテオフィロです。これは「セオス」と「フィレオー」の合成語で「神を愛する者」「神に愛されている者」の意味です。この書物はすべての人に向けて記されました。
②祈りに答える神。
ザカリアとエリサベト夫婦に「あなたの願いは聞き入れられた」と天使によって神による祈りの答えが伝えられました。祈りこそ人間に与えられた恵みの手段であり、祈り、御言葉に信仰が加わる時、祈りは必ず神に届いているのです。