メッセージ 2019年1月〜3月


2019331日 礼拝 岡田順一牧師

「罪人と共に歩む愛」ルカによる福音書 1114

「わたしたちの罪を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人を、皆赦しますから。」(ルカによる福音書11:4

 

私たちの罪に対する神による赦し、隣人の罪に対する私たちの赦しについて三つのヘブライ語によってその内容を学びましょう。

 

①サナー。

「取り去る」「向こうの方へやってしまう」という意味です。「東が西から遠い程 わたしたちの背きの罪を遠ざけてくださる」(詩編103:12)神は私たちの罪を手の届かない所へ取り去り「あなたの過去のどんな罪も忘れた」と言ってくださいます。

 

②サラハ。

「憤り、恨み、憎しみの感情をやめる」という意味。私たちは他者を赦しても感情を押さえることが出来ません。「聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれている」(ローマ5:5)聖霊による神の愛によってのみ感情にも勝利することができます。

 

③カファル。

「覆う」という意味です。傷ついた時、包帯や薬で覆うことによって癒えてきます。本当の赦しは包み込む愛です。「イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた」(ルカ24:15)遠ざかろうとする弟子に主は愛して近づき共に歩まれました。


2019324日 礼拝 岡田順一牧師

「罪を赦す神」ルカによる福音書 1114

「わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を 皆赦しますから。」(ルカによる福音書11:4

 

①わたしたちの罪とは。

赦されなければならない罪について3つのギリシャ語に注目しましょう。第一にハマルティア。「的外れ」という意味です。神の計画から外れて自分勝手に生きることです。第二にパラバシス。「境界線を越える」という意味です。盗みは所有権を越えること。男女の一線を越える時、姦淫の罪が発生します。第三はアノミア。「不法」という意味です。この世の法を破るなら、法律に従って裁かれます。主の目に悪とされることを犯すなら、神を悲しませ、神の裁きの対象となります。まず私たちは、神の赦しを受けるために、神に悔い改めるべきです。

 

②神による罪の赦し。

姦通の罪を犯し、人々の前に辱めを受けた女に主は「わたしもあなたを罪に定めない」(ヨハネ8:11)と彼女に罪の赦しを告げました。彼女は、夫にも他の家族にも赦しを求めたことでしょう。しかし聖書は、神による赦しに注目しています。神による赦しの確信のある人が、本当に隣人の罪を赦すことができます。


2019317日 礼拝 岡田順一牧師

「私たちを養う神」ルカによる福音書 1114

「わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。」(ルカによる福音書11:3

 

①霊と肉を養う神。

「イエスはお答えになった。『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』」(マタイ4:4)私たち人間はパンに代表される肉の糧によって肉体が養われるとともに神の言葉によって霊的に養われることが必要です。私たちは毎日、霊と肉の糧を神様に求める必要があります。

 

②必要を満たす神。

「必要な糧」「日用の糧」とは私たちが生きるために必要なものです。「あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである」(マタイ6:32)神様は私たちが生きるために必要ないっさいのものをご存じです。このお方に必要な糧を毎日求めることは大いに有効な祈りです。

 

隣人の必要のために祈る。

「必要な糧を毎日与えてください」と祈る対象は「わたし」だけではなく「わたしたち」のために祈ることを主は願っておられます。世界の困窮している人々のため、被災地の人々のことを覚えてこの祈りがささげられるべきです。


2019310日 礼拝 岡田順一牧師

「神の御心を求める幸い」マタイによる福音書 6913

「御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。」(マタイによる福音書6:10

 

①神の御心とは。

「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」(ルカ12:32) 神の御心は、神の子たちに一切の必要を与えてくださることです。「神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです。」(テサロニケ一4:3)聖なる者とは、神に喜ばれる者となることです。本来神にとっては、すべての人の存在が喜びなのです。「イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。」(エフェソ1:5)すべての人が救われて神の子となることが神の御心です。愛する者に神の御心が行われることを祈るのは、愛する者の救いを願うことです。

 

②神の御心を求める祈り。

「祈って言われた。『父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。』」(マタイ26:39)主イエスは、十字架を前にして服従の心で神の御心を第一に求めました。神の御心を最優先することは、自我を捨てる心で祈ることが必要です。


201933日 礼拝 岡田順一牧師

「神に治められた心」ルカによる福音書 1114

「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。』」(ルカによる福音書11:2

 

①御国とは。

「御国」とは、神を信じる者に約束された天国と解釈するよりも、今生きている私たちの心が御国のような状態になることです。「御国」とは、神による支配、神による統治です。「御国が来ますように」との祈りは、神に治められた心を求める祈りです。

 

②御国の喜び。

天の国は宝が隠されている畑を買い取るような者であると、主はたとえで話されました(マタイ13:44)。最大の宝は、神による救いです。救われて神の子にしていただいた者は、神を「父よ」と呼び祈ることができます。そこに喜びがあります。私の心を治めてくださる神は、私のすべての心の願いを知っておられます。

 

③御国の祝福。

「御国が来ますように」と祈り、自分の心を神に治めていただく時、神は御言葉を通して私たちに「求めなさい。そうすれば、与えられる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」と、種を蒔くならば「三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ」とプラスを語り続けます。それを信じる時、豊かな祝福となります。


2019224日 礼拝 岡田順一牧師

「中心におられる神」ルカによる福音書 1114

「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。』」(ルカによる福音書11:2

 

①自己存在者への祈り。

「御名」とは神の名です。かつて神は、モーセに御自分のことを「『わたしはある』という方」(出エジプト記3:14)と紹介しました。「わたしはある」とは「存在しようとして存在できる方」「自己存在者」「永遠者」を意味しています。

 

②聖なる神への祈り。

「崇める」とは「聖とする」という意味です。「聖」とは「人とかけ離れている」ことで「夜空に輝く星」にたとえられます。昔の人は星を頼りに旅をしました。「御名が崇められますように」との祈りは、必ず存在される方を信頼して、人生の中心、世界の中心になっていただくことを求める祈りです。

 

③全人類に崇められるべき神。

「御名の栄光を現してください」(ヨハネ12:28)十字架の直前におけるこの主の祈りは、全人類に神の救いがもたらされるための祈りでした。「生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるように」(フィリピ1:20)と、パウロは生涯を通して、御名が崇められることを祈りました。


2019217日 礼拝 岡田文美佳副牧師

「忠実な働き人」コロサイの信徒への手紙 4718

「死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう。」(ヨハネの黙示録2:10

 

パウロの手紙の結びには、彼を支える多くのクリスチャンが紹介されています。それらの人物から私たちのあるべき姿を学びます。

 

①忠実な人。(79)

忠実の意味は真心こめてよく務めることです。パウロ自身も神様の前に忠実さを大切にしましたが、パウロの働きを助け、豊かなものとしたのは忠実な働き人のゆえでした。

 

②励ます人。(8)

主パウロが幽閉されている中でコロサイの教会はじめ多くの教会では大きな不安を抱えていました。いつの時代も教会(クリスチャン)には励ましが必要です。イエス様から救いと癒しの恵みをいただいたものは励まし手となることができるのです。

 

③祈りの人。

コロサイの教会のために多くの祈りがささげられていました(「よろしく言っています」10,11,12,14,15)。私たちの言葉も奉仕もすべてを覆うことはできません。神様だけがことを導き、成し遂げてくださいます。そして、神様の御手は祈りを通して、開かれてゆきます。


2019210日 伝道礼拝 岡田順一牧師

「本物であるしるし」ルカによる福音書 112732節、ヨナ書 2111

「イエスは言われた。『むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。』」(ルカによる福音書11:28

 

①しるしを求める罪人。

「イエスを試そうとして、天からのしるしを求める者がいた」(16)「しるし」とは本物である証拠です。しるしを求める者に主は「今の時代の者たちはよこしまだ」(29)と言われました。主の願いは「見ないのに信じる人は、幸いである」(ヨハネ20:29)とあるように、証拠を求めずして信じることです。

 

②唯一のしるし。

主は「ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」と言われました。ヨナのしるしには二つの内容があります。第一にキリストの十字架と復活です。「ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる」(マタイ12:40)ヨナは神に背き海にほうり出されましたが信仰によって救い出されました。私たちも主の十字架と復活を信じることによってのみ救われるのです。第二にヨナのしるしとは神の言葉です。ヨナが神の言葉を伝えた結果、ニネベの人々は救われました。神の言葉を信じることこそヨナのしるしなのです。


201923日 礼拝 岡田順一牧師

「天の父への祈り」ルカによる福音書 1114

「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。』」(ルカによる福音書11:2

 

①祈りに成長する必要。

「弟子の一人がイエスに、『…わたしたちにも祈りを教えてください』と言った」(1)祈りを教えられたいと思う程、神の子に相応しい態度はありません。毎日祈ることはその人が神の家族であり、神と共に歩んでいる証しだからです。

 

②祈りの本質。

弟子の問いに対して主は「主の祈り」を教えられました。まず呼びかけに注目しましょう。ルカは「父よ」と呼びかけ、マタイは「天におられるわたしたちの父よ」と呼びかけています。マタイの文語訳が、私たちが通常ささげている主の祈りです。天におられるお方が私たちの父であってくださるところに祈りの本質があります。「わたしは、高く、聖なる所に住み」(イザヤ57:15)「天」とは「高く、聖なる所」近寄りがたい場所のことです。到底近寄れない所におられるお方が私たちの最も身近な父になってくださったそこに祈りの本質があります。私たちは聖霊によって「アッバ、父よ」と祈ることが出来るのです(ガラテヤ4:6)


2019127日 礼拝 岡田順一牧師

「理解する愛」ルカによる福音書 103842

「必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」(ルカによる福音書10:42

 

①マルタの動機。

突然のイエスの訪問に、姉のマルタは「もてなしのためせわしく立ち働」きました(40)。マルタの動機は、イエスを喜ばせたいとの思いです。その動機は立派でしたが、主が最も喜ばれるのは「ひたすら主に喜ばれる者でありたい」(コリント二5:9)との願いです。それは、何をして主を喜ばせるかよりも、自分が主に喜ばれる者になることに務めることです。妹のマリアはそう願いましたので、「主の足もとに座って…話に聞き入っ」たのでした(39)

 

②マルタの信頼。

マルタは主に、「わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせています」(40)と告げました。通常そのようなイライラはマリアに言うべきことです。しかしマルタは、イエス自身に告げました。マルタはイエスに対して何でも相談できる信頼がありました。イエスはマルタに「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」(41)とマルタの心を理解し、「必要なことはただ一つだけ」と多くのことから一つのことに心を向けてくださいました。


2019120日 礼拝 岡田順一牧師

「良き隣人になる」ルカによる福音書 102537

「『だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。』律法の専門家は言った。『その人を助けた人です。』そこで、イエスは言われた。『行って、あなたも同じようにしなさい。』」(ルカによる福音書10:3637

 

①隣人愛に生きるとは。

第一に傷ついた隣人がいる認識をもつこと。追いはぎに襲われた人は物を奪われ、裸にされて辱められ、肉体に傷を負い、見捨てられ心にも傷を負いました(30)サマリア人はそれを受け止めました。第二に憐れに思う心をもつこと(33)第三に憐れに思う思いを実行すること。サマリア人は治療し、宿屋に運び、費用を払いました(3435)主は私たちにもこの三つのことを「あなたも同じようにしなさい」と言われるのです。

 

②善いサマリア人とは。

「同じように」とは模範を指しています。私たちの模範はイエス様です。善いサマリア人はイエス御自身です。イエスは私たちのすべての問題を知っておられ、私たちを愛し、十字架上に私たちへの愛を実行されました。このイエスに心を支配していただく時、私たちも良き隣人になることが出来ます。


2019113日 礼拝 岡田順一牧師

「イエスの寛大」ルカによる福音書 102537

「『隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」(ルカによる福音書10:2728

 

①サマリア人を通して表された寛大。

ユダヤ人とサマリア人は歴史的に対立状態にありましたが、イエスは歓迎してくれなかったサマリア人を裁かず(9:5155)、一人の罪深いサマリアの女のためにあえてサマリアを訪ね、彼女を救いに導きました(ヨハネ4:130)

 

②イエスの愛における寛大。

イエスは、ユダヤ人に隣人愛を道徳的に教えようとするなら、追いはぎに襲われたサマリア人を善いユダヤ人が救う話をされたことでしょう。しかしそれを逆に話されたのは、隣人を愛する時、相手のために何かをしてあげようと思うだけでなく、相手にしてもらったことを感謝する心が必要だからです。

 

③イエスの赦しにおける寛大。

「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」(6:36)主は信じる者のすべての罪を赦されました。その主の寛大さによって今日の私たちがあることに感謝し、私たちも隣人愛に生きましょう。


201916日 新年礼拝 岡田順一牧師

「神に従う決心」ルカによる福音書 94962

「イエスはその人に、『鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない』と言われた。」(ルカによる福音書9:62

 

①イエスの決心。

「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」(51)イエスは救い主としてこの世に来られましたが、ここにおいて十字架に向かう決心をなさいました。私たちも、年の初めに神に従う決心をすべきです。

 

②弟子たちの決心。

弟子たちはイエスの招きに決心を持って従いましたが、イエスの決心を理解せず(45)、その心は傲慢でした(46)。イエスはあえてこのような弟子たちを選び、彼らを成長させ用いました。私たちも失敗の多い者ですが、そのような私を救ってくださり、用いてくださる主に感謝をもってお従いすべきです。

 

③私たちの決心。

ペトロのように「どこへでも従って参ります」と立派な言葉を述べても、いざとなると怖気づく人(5758)、トマスのように用心深く決心を先送りする人(5960)、ユダのように後ろを振り向いて裏切る人もいます(6162)。私たちは何も付け加えず、ただ「主よ、あなたに従います」と決心する者でありましょう。