メッセージ 2020年10月〜12月


20201227日 礼拝 岡田順一牧師

「神の言葉に導かれて」詩編 119129136

「御言葉が開かれると光が射し出で 無知な者にも理解を与えます。」(詩編119:130

 

①御言葉の驚くべき可能性。

「あなたの定めは驚くべきものです」(129) 出エジプトという驚くべき神の御業が成された時、救い出された民は最初「御言葉を信じ」(106:12)ていましたが、やがて神を忘れるようになりました。その理由は「御言葉を信じなかった。」(106:24)からです。御言葉の中に驚くべき可能性があります。

 

②御言葉が開かれる可能性。

「御言葉が開かれる」とは聖書を読む人の第一に目が開かれることです(創世記21:19)失望して閉ざされていた目が神に希望を持って開かれます。第二に心が開かれることです(使徒言行録16:14)固い心が開かれて救いに導かれます。

 

御言葉が開かれるための祈り。

「御顔の光をあなたの僕の上に輝かせてください。」(135) 詩人は御言葉を開いてくださる主の御顔を慕い求めました。この時詩人は自らを「無知な者」として祈りました。無知な者とは学ばない人のことではなく、御言葉の驚くべき可能性を自分で決め付けずに白紙の心で神に祈る人です。


20201220日 クリスマス礼拝 岡田順一牧師

「人となられた救い主」マタイによる福音書 11825

「主の天使が夢に現れて言った。『ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。』」(マタイによる福音書1:20

 

①信仰によるクリスマス。

クリスマスに誕生されたキリストをマリアは「聖霊によって身ごも」りました(18)。天使も「マリアの胎の子は聖霊によって宿った」とヨセフに告げました。キリストは処女マリアを通して聖霊によってこの世に誕生されたことは、生物学的常識を超えて信仰によって受けとめるべき事実なのです。

 

②創造主によるクリスマス。

「主なる神は…人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。」(創世記2:7) 息とは霊を意味します。最初の人アダムは神の霊をいただいて生きる者となりました。今日の私たちも聖霊を受けてこそ人間らしく生きることができます。

 

謙遜な者のためのクリスマス。

「マリアは言った。『わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。』」(ルカ1:38) マリアの謙遜は自らを主のはしためと呼び、自分の身に自分の願いではなく、主の言葉が成ることを求めたことです。


20201213日 アドベント第三主日礼拝 岡田順一牧師

「罪人のためのクリスマス」マタイによる福音書 9913

「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マタイによる福音書9:13

 

①キリストに招かれる者となる。

主イエスはこの世に来られたクリスマスの目的を「正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と言われました。「正しい人」とは主を批判する律法学者(3)、ファリサイ派の人々(11)です。彼らは自らを罪人と自覚しない人々です。それに対して「罪人」とは自らが神の前に罪人であることを自覚する人です。その人こそキリストに招かれる者であり、キリストはその人を救うためにこの世に来られました。

 

②キリストの招きに応える。

「罪人を招くためである」招くとは「交わりの中に入る」という意味です。主はマタイを「わたしに従いなさい」と招きました。「彼は立ち上がってイエスに従」いました(9)。マタイは主を自分の家の食事に招待しました。そこには他の罪人たちも大勢来ました(10)。マタイは自分のありのままの人生に主を招いたのです。ありのままに家、ありのままの人間関係を主に明け渡しました。彼は主の招きに応えて救われました。


2020126日 アドベント第二主日礼拝 岡田順一牧師

「完成のためのクリスマス」マタイによる福音書 51720

「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」(マタイによる福音書5:17

 

①旧約によって証しされた神の救い。

主イエスは「わたしが来たのは律法や預言者を…完成するためである。」と言われました。律法や預言者とは旧約の内容のことです。神は人が神の戒めである律法を守る事によって救いの道を示されましたが、人はそれを自らの力では守れず、次に預言者を遣わしてメシヤ(救い主)を待ち望むことを示されました。旧約は人間がいかに罪人であるか、自らの力によってでは自分を救い得ないことを証ししています。

 

②旧約の完成者キリストによる救い。

「今や、…神の義が示されました。…イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。」(ローマ3:2122)  私たちは神の戒めを守る事のできない罪人ですが、罪無き神の御子キリストが私の身代わりとなって十字架上で死んで下さったことを信じる時、神は私たちを義なる存在と認めてくださり救いをもたらして下さいます。


20201129日 アドベント第一主日礼拝 岡田順一牧師

「キリストの前に立つ」ルカによる福音書 23112

「ピラトがイエスに、『お前がユダヤ人の王なのか』と尋問すると、イエスは、『それは、あなたが言っていることです』とお答えになった。」(ルカによる福音書23:3

 

「全会衆が立ち上がり」(1) キリストを裁くために立ち上がった人々こそが、実はキリストの前に立たされているのです。

 

①信仰告白のために立つ。

「お前がメシアなら、…お前は神の子か」(22:67,70)とキリストは尋問されました。キリストの前に立つ私たちは、それをキリストに問うのではなく「あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」とキリストに問われたペトロのように「神からのメシアです。」と自ら信仰を告白すべきです(9:20)

 

②真の王の前に立つ。

ピラトはキリストに「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問しました。主はそれを肯定しましたが、ピラトは「わたしはこの男に何の罪も見いだせない」(4)と判断を下しました。にもかかわらず「ピラトは群衆を満足させようと思って…イエスを…十字架につけるために引き渡した。」(マルコ15:15) 彼は人の前に自分を偽りました。真の王の前に真理に生きるべきでした。


20201122日 礼拝 岡田順一牧師

「神の言葉を聴く心」ルカによる福音書 226371

「『お前がメシアなら、そうだと言うがよい』と言った。イエスは言われた。『わたしが言っても、あなたたちは決して信じないだろう。』」(ルカによる福音書22:67

 

①愛してくださる主の言葉。

「ペトロは、『今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう』と言われた主の言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた」(6162) ペトロの涙は悔い改めの涙と主の愛への感謝の涙でした。彼が主の愛に気づいたのは愛してくださる「主の言葉を思い出した」からです。

 

②主の言葉に背を向ける人の不幸。

兵士たちは「イエスを侮辱したり…さまざまなことを言ってイエスをののしった。」(6365) 彼らは主への侮辱、ののしりの言葉を発し続け、主に語らせませんでした。主の言葉に背を向けることこそが人間の不幸なのです。

 

愛する主の言葉に応える。

「お前がメシアなら、そうだと言うがよい」(67) 「お前は神の子か」(70) 祭司長、律法学者たちは裁きの心で主に大切な質問をしましたが、私たちは主を愛する心で、主こそ救い主、主こそ神の子と信仰を告白すべきです。


20201115日 礼拝 岡田順一牧師

「キリストの瞳」ルカによる福音書 224762

「主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、『今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう』と言われた主の言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。」(ルカによる福音書22:6162

 

①悲しむキリストの瞳。

「ユダという者が…イエスに接吻しようと近づいた。」(47) 著者のルカは「ユダという者が」とユダが主を裏切り、主と関係のないものとなったことを暗示させています。そのユダを主は愛するがゆえに悲しみの瞳を向けられました。

 

②罪を憎むキリストの瞳。

「今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている」(53) 主は祭司長、長老、群衆たちによって十字架に追いやられました。あたかも闇の力が覆っているようです。しかしキリストは罪を憎み、罪人を救うために十字架に向かわれました。

 

祈りのこめられたキリストの瞳。

「主は…ペトロを見つめられた。」この主の瞳は「わたしはあなたのために、祈った。」(32)という祈りのこめられた瞳でした。この瞳がペトロを涙の悔い改めに導きました(62)この主の瞳を我が瞳とさせていただきましょう。


2020118日 礼拝 岡田順一牧師

「神の御心に従う祈り」ルカによる福音書 223946

「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」(ルカによる福音書22:42

 

①いつもの祈りが特別であった。

「イエスが…いつものようにオリーブ山に行かれると、…いつもの場所に来ると、」(3940) ゲッセマネにおける主の祈りは特別な祈りの時でしたが、ルカはその祈りが「いつものように…いつもの場所に」おける祈りであったと記しています。主にとってはいつもの祈りが特別だったのです。

 

②愛の苦しみの伴う祈り。

「イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。」(44) 主の苦しみは全人類の罪を身に負い、父なる神に見捨てられる苦しみでした。それは私たちの救いのための愛の苦しみです。私たちも愛の執り成しの祈りをささげるべきです。

 

の御心に従う祈り。

「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」「キリストは…多くの苦しみによって従順を学ばれ」(ヘブライ5:8) キリストでさえも従順を学ぶ必要がありました。私たちも一つ一つ神の最善の御心を選び取りましょう。


2020111日 礼拝 岡田文美佳副牧師

「恵み深い主に感謝せよ」詩編 136126

「恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに」詩編136:1)

 

①恵み深い主に感謝せよ。

「感謝せよ」と、この詩は神様の礼拝への招きの言葉

で始まります。そして、感謝は神様の恵み深さ(トーブ)に、軸を置きます。神様が注いでくださる恵み(ヘセド)は、わたしたちがどのような中でも変わらずに注ぎ続けてくださる契約の恵みであり、ご愛です。

 

②救いを成し遂げてくださる神、救い続けてくださる方。

「低くされたわたしたちを  御心に留めた方に感謝せよ。慈しみはとこしえに」(23) 神様は私たちを罪の中から贖い救い出すお方です。救いの業は、継続されてゆきます。弱さや、不信仰、不従順に陥るとき、忍耐強くお取り扱いくださいます。主を見上げ、主の恵みに目を留め続けたいと思います。感謝しつつ。


20201025日 礼拝 岡田順一牧師

「実現させてくださる神」ルカによる福音書 223538

「『その人は犯罪人の一人に数えられた』と書かれていることは、わたしの身に必ず実現する。わたしにかかわることは実現するからである。」(ルカによる福音書22:37

 

①過去に実現された神への感謝。

主は弟子たちを最初に派遣した時「何も持って行ってはならない。」(9:3) と指示されました。その時のことを思い出させ「何か不足したものがあったか。」(35) と問われました。彼らは「いいえ、何もありませんでした」と答えました。主は彼らに過去の恵みを思い起こさせました。過去の恵みに感謝する人こそ次の恵みにあずかることができるからです。

 

②実現させてくださる神の備え。

「しかし今は、」(36) 財布も袋も剣も「持って行きなさい。」と最初の派遣の時と逆の指示をされました。それは状況の変化ということです。最初の派遣の時、神は弟子たちを歓迎する人々を備えられました。しかし今は主を十字架に追いやる反対者ばかりです。私たちも状況の変化に戸惑うことがありますが「わたしはあなたのために…祈った。」(32) との主の執り成しの祈りが私たちに備えられていることを信じましょう。


20201018日 教会創立110周年記念礼拝 岡田順一牧師

110年の歩みを記念して」創世記 281022

「『ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ。』ヤコブは…枕にしていた石を取り、それを記念碑として立て、」(創世記28:1718

 

①神の御臨在を記念する。

ヤコブは夢の中で「主がこの場所におられる」(16)ことを知りました。110年前に森五郎先生が東苗穂に開拓伝道されて以来、神は札幌新生教会のただ中に御臨在し続けてくださいました。主の臨在する教会であり続けましょう。

 

②神の恵みを記念する。

ヤコブは夢の中で天に達する階段を天使が上り下りする光景を見ました(12)。これは祈りが天に届きその応えが与えられる恵みです。さらに、わたしはあなたと共にいる。あなたを守り、決して見捨てない。(15)との恵みのお言葉を聞きました。祈りと御言葉を通して神の恵みは与えられ続けました。

 

神の救いの御業を記念する。

ヤコブは神による恵みを知らされた時「わたしは知らなかった。」(16)と告白しました。神の恵みを知らない人が知らされることこそ福音宣教です。110年の歩みの中に多くの魂が神の恵みを知らされたことこそ記念すべきです。


20201011日 礼拝 岡田順一牧師

「仕える者となる」ルカによる福音書 222434

「あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。」(ルカによる福音書22:26

 

①最も大切な教え。

最後の晩餐において主は最も大切な教えをすべてのキリスト者に残されました。第一に聖餐の教えを通して十字架を生涯覚え続けるように(コリント一15:35)。第二に「仕える者のようになりなさい」とキリスト者の生き方を教えられました。

 

②仕える者とは。

パウロは十字架から目を離さずに生きた結果、自らのことを「値打ちのない者」と呼び、その働きについて「わたしではなく」と自己評価しました。それは十字架を通して神の恵みを実体験したからです。「神の恵みによって今日のわたしがあるのです。」(コリント一15:910) 仕える者は神の恵みに生きる者です。

 

仕える者になるために。

「あなたがたは、わたしが種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた。」(28) 神は人生の試練を通して私たちを仕える者にしてくださいます。ペトロが失敗した時「わたしはあなたのために…祈った。」(32)とペトロは主イエスの祈りに支えられて主に仕える者とされました。


2020104日 礼拝 岡田順一牧師

「聖餐式の意味」ルカによる福音書 221423

「イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。『これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。』」(ルカによる福音書22:19

 

①過越の実現としての聖餐式。

「イエスは言われた。『苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと…切に願っていた」(15) 過越とは出エジプトにおいてイスラエルの民を恐ろしい災いから神が救い出された記念の祭りです。神は小羊の血を玄関に塗った家を救われました(出エジプト記12:114)主イエスこそ神の小羊です。聖餐を救いの確信をもって受けるべきです。

 

②神の国の実現としての聖餐式。

「神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事をとることはない。」(16) 神の国とは救いの完成する所です。そのために主が再び血を流す必要はありません。聖餐を受ける度に十字架への信仰を確認し、自らの救いと与えられた永遠の命を確信すべきです。聖餐を受けることによって私たちはキリストと一体になることができます。