メッセージ 2019年10月〜12月


20191229日 礼拝 岡田順一牧師

「いつも一緒におられる神」ルカによる福音書 152032

「父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。』」(ルカによる福音書15:31

 

①感謝する心の根本。

放蕩に身を持ち崩した息子が帰って来た時、父親は「祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」(32)と言いました。父なる神は、私たちがいかに罪人であっても愛し、大切に思ってくださいます。そこに神への感謝の根本があります。

 

②感謝できない心。

兄は弟の帰還を感謝できませんでした。その理由は第一に父の愛に対する感謝の気薄さ。第二に自分を誇る心。彼は自分の行為に存在価値をおいていました(29)。第三に祈りの乏しさ。彼は弟のことを父に「あなたのあの息子」と呼びました(30)。祈りのない人の言葉です。そこには感謝は生み出されません。

 

感謝をもって新年を迎える。

父が感謝できない兄息子に言った言葉こそ、新年に私たちが心に明記すべき言葉です(31)。第一に「子よ」神の子である確信。第二に「お前はいつもわたしと一緒にいる」神の臨在の確信。第三に「わたしのものは全部お前のものだ」神による祝福の確信です。第四に、祈りは答えられる確信(32)


20191222日 アドベント第四主日礼拝 岡田順一牧師

「あなたのための救い主」ルカによる福音書 2816節、152024

「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」(ルカによる福音書2:11

 

①すべての人のための救い主。

「天使は言った。『…民全体に与えられる大きな喜びを告げる』」(10) 救い主は全人類のために誕生されました。羊飼いは当時最も貧しく底辺に住む人々でした。その羊飼いが、最初に救い主を礼拝する恵みにあずかったのです。

 

②私のための救い主。

「あなたがたのために救い主がお生まれになった」救い主は一人一人のために誕生されました。「飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう」(12) 最も低い所に誕生された救い主を、私たちも自らを低くしてお迎えすべきです。

 

心を低くする者への神の恵み。

放蕩息子は「もう息子と呼ばれる資格はありません」(15:19)と、心を低くして父親のもとに帰りました。その息子に父親は「いちばん良い服を持って来て、この子に着せ」(15:22) それは過去の罪を赦された新生の恵みです。「手に指輪をはめてやり」それは相続人としての永遠の命です。「足に履物を履かせ」もはや奴隷ではなく自由にされた証明です。


201912月15 アドベント第三主日礼拝 岡田順一牧師

「愛は名詞ではなく動詞」ルカによる福音書 151124

「ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。」(ルカによる福音書15:20

 

「放蕩息子」のたとえから神と人間との関係を学びましょう。

 

①神に罪を犯した人間。

財産を要求する息子に、父親は財産を分けてやりました。これは人間に神が自由意志を与えたことを意味しています。息子の行動は自分の意志を貫き、放蕩に身を持ち崩し自分の意志のとおりにいかなくなり、他人の意志によって豚の世話をするようになり、遂には豚の餌で腹を満たす罪の奴隷となりました(1316)。神が人間に自由意思を与えたのは罪を犯すためではなく、神と人間が意思を持って愛し合うために与えたのです。

 

②神に愛されている人間。

自分の罪を認めて父親のもとに戻った息子に父は「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて」神は罪人である私たちをいつも待っていてくださいます。「憐れに思い」神のもとを離れ価値無き私たちをも神は憐れんでくださいます。「走り寄って首を抱き、接吻した」豚の糞にまみれた息子、罪にまみれた私たちを神はありのままに愛してくださいます。


2019128日 アドベント第二主日礼拝 岡田文美佳副牧師

「神は、我らと共にいます」マタイによる福音書 11825

「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」(マタイによる福音書1:23

 

①神様のご計画を担う。

ヨセフは、神様の救いのご計画の一つを担いました。マリアを迎え入れ(20)幼子にイエスと名付けること(21)でした。壮大なご計画の全てをすぐに理解し受け入れることは難しかったことでしょう。神様は、今ヨセフができることを示し、彼は従順に従ったのです。私たちも今神様から導かれている一事を丁寧にお応えすることが神様の救いのご計画に参与することになります。

 

②神様は、我らと共にいます。

父ヨセフに、恐れがありました。神様は「恐れるな」と語られ、神様ご自身が「共に」いてくださることが、神様のご計画を担うことのできる確信であることを宣言してくださいました。私たちの目の前にも、恐れ、戸惑う出来事が次々と起こります。しかし、クリスマスにこの世に来てくださった主は共にいてくださり、恐れから解放してくださいます。


2019121日 アドベント第一主日礼拝 岡田順一牧師

「私たちの父なる神」ルカによる福音書 151119

「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。」(ルカによる福音書15:1112

 

①私たちを創造された神。

「ある人に息子が二人いた」ある人とは父なる神、二人の息子とは私たち人間のことがたとえられています。父なる神がおられて、被造物である私たちが存在します。創造主は第一に絶対存在者です。「神は…『わたしはある。わたしはあるという者だ』と言われ」(エジプト3:14)「わたしはある」とは永遠に存在し続けることです。第二に創造主は人格的お方です。「神は御自分にかたどって人を創造された」(創世記1:27)主イエスは私たちと同じ人間として誕生されました。第三に創造主は愛の神です。神は作品である私たちを愛して独り子を遣わされました。

 

②人間との交わりの回復を求める神。

父を父とも思わず家を出て行った弟息子の姿は、神に反逆する罪人の姿です。しかし父なる神は、この罪人である弟息子との交わりの回復を待ち続けました。アドベントの時、私たちを待ってくださった神に感謝しましょう。


20191124日 礼拝 岡田順一牧師

「宴会に招く神」ルカによる福音書 141524

「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」(ルカによる福音書14:15

 

①神の確かな祝福。

「ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き」(16) ある人とは神のこと、大勢の人とは全人類、盛大な宴会とは神による素晴らしい祝福です。私たちは「わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」(ヨハネ6:35)という祝福に招かれています。

 

②神の招きを拒む人の罪。

宴会に行きますと答えた人々はその時刻になった時不当な理由で「皆、次々に断」(18)りました。彼らは招かれた神もその祝福も軽んじました。これは「神としてあがめることも感謝することもせず」(ローマ1:21)という人の罪です。

 

小さき者を招く神。

「貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい」(21)「貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい…その人たちはお返しができないから」(1314) 神の恵みに対して自分にはお返しが出来ないと思う人こそ恵みにあずかります。  


20191117日 伝道礼拝 岡田順一牧師

「見失った羊を捜す神」ルカによる福音書 1517

「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。」(ルカによる福音書15:4

 

①一匹の羊の危うさ。

「一匹を見失った…一匹を見つけ出すまで」と、主イエスは一匹を強調しています。一匹で道に迷うなら羊には帰る力はありません。人間も孤独を感じる時こそ危うい時です。私たちが孤独を感じる時、主は私たちを見つめておられます。

 

②一匹を大切にする羊飼い。

羊飼いは百匹の羊を飼っていましたが、一匹が道に迷ったことを見失いませんでした。一匹一匹を大切に思っていたからです。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネ10:11)  良い羊飼いである主イエスは、羊である私たちを愛して十字架にかかられました。

 

③羊飼いと羊が共に歩む喜び。

「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た」(1) 徴税人や罪人こそ、道に迷った羊です。彼らは主イエスに近寄り、共に歩むことを願いました。私たち羊にとって良い羊飼いである主と共に歩むことこそ幸いです。


20191110日 礼拝 岡田順一牧師

「へりくだる者を高める神」ルカによる福音書 14714

「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」(ルカによる福音書14:11

 

①謙遜な者を求める神。

「『神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる』…思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい」(ペトロ一5:5,7)  神から恵みをいただける謙遜な者とは何もかも神にお任せ出来る人です。その人は思い煩いから解放される恵みにあずかります。「わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである」(ヨハネ6:38)  自分の意志ではなく神の御心を行うこの主の心を我が心とする者こそ神にも隣人にも謙遜な者なのです。

 

②謙遜な者を高める神。

「わたしは、高く、聖なる所に住み 打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり」(イザヤ57:15)  高く、聖なる所に住む神はへりくだる人と共に歩まれます。「へりくだる者は高められる」とはすべての神と共に歩む人の上に実現します。最終的には御国に凱旋する時です。「御国に行きたい」と心から願う人はへりくだって御国への道案内を神に願う人なのです。   


2019113日 礼拝 岡田順一牧師

「日曜日の恵み」ルカによる福音書 1416

「『安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか。』…すると、イエスは病人の手を取り、病気をいやしてお帰しになった。」(ルカによる福音書14:34

 

①日曜日に病人をいやすキリスト。

主は安息日に水腫を患う人をいやされました。今日の私たちにとって日曜日の礼拝の時はいやしの時でもあります。「人々はイエスの様子をうかがっていた」(1) 人々は主の足を引っ張ろうとしていました。彼らは心が病んでいました。肉体も精神も心も主がいやしてくださいます。

 

②いやされるための信仰。

第一に自らの病を自覚することです。「イエスの前に水腫を患っている人がいた」(2) この人は自らの病を自覚し「イエスの前に」自らをおきました。礼拝は主の御前に出る時です。肉体的にも精神的にも心においても主の前に自分を差し出す時、主はいやしてくださいます。第二に主に自らをゆだねることです。「イエスは病人の手を取り、病気をいやしてお帰しになった」主の言われるように手を差し出し主に遣わしていただく、主の言葉に自らをゆだねる時、主はいやしてくださいます。


20191027日 礼拝 岡田順一牧師

「ひなを羽の下に集める神の愛」ルカによる福音書 133135

「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか」(ルカによる福音書13:34

 

①敵をも愛するキリスト。

「ヘロデがあなたを殺そうとしています」(31) このヘロデは、バプテスマのヨハネの首をはねた人物です。「イエスについて、『ヨハネが死者の中から生き返った』」(9:7)と聞いたヘロデは、主の命を狙いました。そのヘロデに対して「羽の下に…何度集めようとしたことか」と、主は敵をも愛する愛によって言われました。私たちも何度主を待たせたことでしょうか。

 

②命無き信仰者をも愛するキリスト。

「エルサレム、エルサレム」と、エルサレムの人々が命無き信仰者であることを主は嘆かれました。命ある信仰者か、命無き信仰者か、その基準はめん鳥の羽の下にいるかどうかです。「神は羽をもってあなたを覆い 翼の下にかばってくださる」(詩編91:4) 恐れから解放されているでしょうか。「瞳のようにわたしを守り あなたの翼の陰に隠してください」(詩編17:8) 自分の弱さ、隠したい所を主に明け渡しているでしょうか。


20191020日 礼拝 岡田順一牧師

「狭い神の国の入り口」ルカによる福音書 132230

「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。」(ルカによる福音書13:24

 

①聖書の教えの狭さ。

「この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます」(テモテ二3:15) 66巻の聖書全体を通して、キリストへの信仰によって救われてほしいとの神の愛のメッセージが繰り返されています。

 

②信仰の対象の狭さ。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16) すべての人が救われる条件である信仰の対象は、神の独り子であるイエス・キリストだけです。

 

③キリスト者の生き方の狭さ。

「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:44) 自分を愛してくれる人を愛するしかできない私たちへのキリストの要求は、敵をも愛する愛です。「自由を…愛によって互いに仕えなさい」(ガラテヤ5:13) 自由とされた私たちへのキリストの要求は、愛の僕となることです。日々聖霊による神の愛の注ぎを受けて、そのように生きることができます。


20191013日 礼拝 岡田順一牧師

「成長させる神」ルカによる福音書 131821

「神の国は何に似ているか。何にたとえようか。それは、からし種に似ている。人がこれを取って庭に蒔くと、成長して木になり、その枝には空の鳥が巣を作る。」(ルカによる福音書13:1819

 

①神の恵みによる外的成長。

けし粒よりも小さいからし種が蒔かれると5mにも及ぶ木に成長します。初代教会はローマ帝国による激しい迫害をうけましたが、紀元313年にはローマ皇帝によってキリスト教は公認され、今日世界の人口の三分の一はクリスチャンとなっています。これは神の恵みによる外的成長です。

 

②神の愛による内的成長。

「神の国を何にたとえようか。パン種に似ている。…粉に混ぜると、やがて全体が膨れる」(2021) パン種のようにクリスチャンも内的成長、内的変化を経験できます。内的成長とは第一に信仰の成長。「心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われる」(ローマ10:9)  第二は価値観の成長。自己中心がキリスト中心に変えられることです。第三に愛の成長。「愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます」(エフェソ4:15)


2019106日 礼拝 岡田文美佳副牧師

「思い直される神」ヨナ書 3110

「神は彼らの業、彼らが悪の道を離れたことをご覧になり、思い直され、宣告した災いをくだすのをやめられた。」(ヨナ書3:10

 

①ヨナに与えられたセカンドチャンス。

魚のお腹の中で悔い改めたヨナに、神様は「再び」声をかけられ、主の働きのために召し出されました。そして、神様は挫折し失敗する私にもセカンドチャンスをくださいます。弱さを覚える私の中の小さな可能性を見出し、期待して用いてくださいます。

 

②民の悔い改め。

ニネベの民は、ヨナによって神様の厳しい言葉をかけられます。民らは、御言葉に真摯に向き合った時、王も含め町全体の深い悔い改めが起こされ、民らは神を信じました。

 

思い直される神。

神様は、ニネベの民らの姿に町を滅ぼす計画を思い直されました。神様は正しいお方です。聖なるお方です。そして、それ以上に愛と憐れみのお方です。神様は悔いる者をどこまでも受け入れ、お救いくださいます。

詩編51:19「しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を 神よ、あなたは侮られません。」