2023年9月24日 礼拝 岡田順一牧師
「信仰による聖霊の注ぎ」ガラテヤの信徒への手紙 3章1〜5節
「神があなたがたに霊を授け、あなたがたの間で奇跡を行われたのは、あなたがたが律法を行ったからですか、それとも信仰に聞き従ったからですか。」(ガラテヤの信徒への手紙3:5)
①立ち続ける十字架の恵み。
「十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前にはっきりと示された」(1) 目の前で見ているかのように信じていた十字架の恵みが、過去の出来事になる時、悔い改めることが形式的になり、心から犯した罪が赦されること、汚れた心が清められることが信じられなくなります。
②信仰によって聖霊を受ける恵み。
「あなたがたが霊を受けたのは…信仰に聞き従ったからですか。」(2) 聖霊を受けることはキリスト者の霊的祝福の総括です。その聖霊を受ける恵みは、律法を守るという人の行いによるのではなく、信仰によって注がれます。
③聖霊によって歩む恵み。
「霊で始めたのに、今、肉で仕上げようとするのですか。」(3) 霊で始めるとは、何事も祈って始めることです。それを肉で仕上げるとは、最後を自分の力、経験、知恵に頼ることです。祈って始めたなら最後まで神にお任せすべきです。
2023年9月17日 召天者記念礼拝 岡田順一牧師
「御国を待ち望む祈り」詩編 39篇1〜14節
「主よ、私の祈りをお聞きください。私の叫びに耳を傾けてください。私の涙に黙していないでください。私はあなたに身を寄せる者 すべての先祖と同じ宿り人。」(詩編39:13)
①人生のはかなさを認める。
ダビデは、様々な罪深さを知っていました。日常生活の中で、口さえもセルフコントロールできないと弱さを認めています(2、3)。そして弱いゆえに、神に祈り神に問いかけました(5)。私たちも自らの罪深さ、弱さ、はかなさを認めることから神に向かう歩みが始まります。
②神による望みの人生を歩む。
お委ねするに至るまでは、苦闘し、悲しみます。しかし、神様によろしくお願いしますと、神様に何もかも委ねる祈りにより平安が与えられます(8)。神様に背を向けるのではなく、神様の方に向き直ることが平安への一歩です(9)。
③御国を待ち望む祈り
私たちを創造し、救いの計画を全うしてくださった神さまこそ頼るべきお方です。神様こそ私たちが身を寄せるお方です。このお方のもとに宿る時、永遠に至る御国の住人となります(13)。
2023年9月10日 長寿の恵み感謝礼拝 岡田順一牧師
「助けてくださる神」詩編 46篇1〜12節
「神は我らの逃れ場、我らの力。苦難の時の傍らの助け。それゆえ私たちは恐れない 地が揺らぎ 山々が崩れ落ち、海の中に移るとも。」(詩編46:2〜3)
①危機における神の助け。
「苦難の時の傍らの助け。」(2) アッシリアの大軍による国家的危機における詩です。神の傍らの助けとは、最も近い助けであり、最も早い助けであり、信仰の手を伸ばせば、必ずそこにある助けです。神による助けを信頼しましょう。
②神の助けの方法。
第一に神の言葉による助け。「神が声を出されると、地は溶け去る。」(7)「民は騒ぎ…王国は揺らぐ。」(7) とは創造前の世の状況に似ています(創世記1:2)。そこに「光あれ。」との神の言葉によって光が創造されたように神の言葉によって神の助けはもたらされます。第二に聖霊による助け。「川とその流れは神の都に…喜びを与える。」(5) 主イエスは信じる者の内に聖霊が「その人の内から生ける水が川となって流れ出る」(ヨハネ7:38) と言われました。その聖霊によって「あなたがたは苦しみにさいなまれるが、その苦しみは喜びに変わる。」(ヨハネ16:20) と約束されました。
2023年9月3日 礼拝 岡田順一牧師
「私の内に生きるキリスト」ガラテヤの信徒への手紙 2章15〜21節
「私はキリストと共に十字架につけられました。生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。」(ガラテヤの信徒への手紙2:19〜20)
①キリストと共に十字架につけられる。
ホーリネスの視点から第一に内側の十字架経験。「肉を情欲と欲望と共に十字架につけたのです。」(5:24) 私たちの内にある罪深い情欲と欲望が十字架につけられるべきです。第二に外側の十字架経験。「私も世界に対して十字架につけられたのです。」(6:14) この世にあってどのような時も神の側に着く者、神を選び取る者であり続けることです。
②私の内に生きるキリスト。
キリストが私の内に生きておられるとは、キリストの霊である聖霊によって生きる生涯です。「あなたがたが子であるゆえに、神は『アッバ、父よ』と呼び求める御子の霊を、私たちの心に送ってくださったのです。」(4:6) 心におられる御子の霊の最大の働きは父なる神に呼び求める祈りです。御子を内に宿す人は、100%の父への信頼をもって祈り、父は御子の執り成しによって私たちの祈りをすべて理解してくださいます。
2023年8月27日 礼拝 岡田順一牧師
「キリストと共に十字架に」ガラテヤの信徒への手紙 2章15〜21節
「私は神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。」(ガラテヤの信徒への手紙2:19)
①義とされる恵み。
全人類は罪人であり、有罪宣告をうけるべきですが、神は信仰によって私たちを義とし無罪宣告を告げられました。その義認の源泉は神の愛です。神は愛をもって無罪宣告を告げました。義認の実行は十字架です。神の独り子が全人類の罪を身に負って十字架上に死んでくださり、義認は実行されました。義認の方法は信仰によってのみです。自分の罪を認めて、キリストの十字架を我が為と信じる時、その人は義と認められます。
②義とされる信仰。
律法に死ぬことを信じる。律法に死ぬとは、自分の行いに頼ることをやめて信仰に立つことです。キリストと共に十字架につけられたと信じる。キリストは私たちの罪の身代わりとなって死んでくださり三日目に復活して、信じる者に永遠の命を与えました。私たちと同じ人間であったキリストでしたが、唯一罪を犯されませんでした。私たちが十字架上に死んだと信じる時、罪を犯されなかったキリストと共に生きることができます。
2023年8月20日 礼拝 岡田順一牧師
「人を義とする神」ガラテヤの信徒への手紙 2章15〜21節
「人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、ただイエス・キリストの真実によるのだということを知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。」(ガラテヤの信徒への手紙2:16)
①神による義。
「人が義とされるのは」(16) 義とされるとは、正しいと認められることです。神は愛の意思をもって私たちを義と認めてくださいます。「正しい者はいない。一人もいない。」(ローマ3:10) すべての人間は罪人です。その人間を神は「キリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより価なしに義とされるのです。」(ローマ3:24) キリストの十字架によって義とされるのです。
②ただ信仰による義。
「人が義とされるのは…ただ…キリスト・イエスを信じました。」(16) 神が罪人である私たちを義としてくださる条件はただ信仰だけです。「律法の行いによるのではなく」(16) 行いが評価される基準は人の役に立つかどうかです。その判断基準では役に立たない人は捨てられることになります。神は人間一人一人の存在を価値あるものとし、愛されましたので、行いによらず、ただ信仰によってのみ人間を義としてくださいました。
2023年8月13日 礼拝 岡田順一牧師
「福音の真理に従って」ガラテヤの信徒への手紙 2章1〜14節
「彼らが福音の真理に従ってまっすぐに歩いていないのを見て、私は皆の前でケファに言いました。」(ガラテヤの信徒への手紙2:14)
①神から与えられた使命。
「ペトロに働きかけて彼を割礼を受けた者への使徒としてくださった方は、私にも働きかけて異邦人への使徒としてくださったのです。」(8) ペトロはユダヤ人に、パウロは異邦人に福音を伝える固有の使命を神は与えました。同様に私たちにも神は私たちの家族、友人、同僚に福音を伝える私たちへの固有の使命を与えておられます。それを自覚すべきなのです。
②福音の真理を守る。
パウロが異邦人宣教の報告をするためにエルサレムに来た時、ヤコブ、ペトロ、ヨハネというおもだった人たちはパウロが「割礼を受けていない者への福音を委ねられていることを認めました。」(7) エルサレムには割礼を強要する人々がいましたが、彼らはそれに屈服しませんでした。なぜなら人は、信仰によってのみ救われるからです。屈服しそうになったペトロをパウロは面と向かって非難しました(11)。その根底にあったのは救いについて「神は人を分け隔てなさいません」(6) との真理です。
2023年8月6日 礼拝 岡田順一牧師
「神の恵みによる回心」ガラテヤの信徒への手紙 1章11〜24節
「母の胎にいるときから私を選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子を私に示して、異邦人に御子を告げ知らせるようにされた」(ガラテヤの信徒への手紙1:15〜16)
①回心前のパウロ。
「私がかつて」(13) 誰でもキリストに出会う前、かつては罪人でした。パウロの犯した罪は「私は神の教会を徹底的に迫害し、破壊しようとしていました。」(13) 大罪人でした。
②パウロの回心。
「私は、その福音を…イエス・キリストの啓示を通して受けた」(12) 大罪人パウロもキリストの十字架による福音を信じて回心しました。「しかし」(15) 回心によって生きる基準が大転換し、主語が「私が…私は」(13) から「恵みによって…神が、御心のままに」と、自己中心から神中心に変えられたのです。そのようにパウロを変えたのは愛による神の選び、神の恵みによる召命、内住のキリストの事実のゆえでした(15~16)。
③回心後のパウロ。
「直ちにアラビアに出て行き」(17) 回心したパウロはまず祈るために静まることを優先しました。「今は告げ知らせている」(23) 祈った後に、彼は宣教に邁進して行きました。
2023年7月30日 礼拝 岡田順一牧師
「すべてはキリストによって」ガラテヤの信徒への手紙 1章1〜10節
「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、この方を死者の中から復活させた父なる神とによって使徒とされたパウロ、」(ガラテヤの信徒への手紙1:1)
①自分の存在の根本であるキリスト。
パウロは1節において、自分が使徒とされたのは人からではなく父なる神と御子キリストによると記しました。実際にパウロは復活されたキリストと出会い、父なる神によって「あの者は…私の名を運ぶために、私が選んだ器である。」(使徒言行録9:15) と言われました。パウロだけでなく、すべてのキリスト者は、キリストと出会って救われた一人一人です。
②救いの根本であるキリスト。
キリストの十字架こそ私たちの救いの根本です。「私たちの罪のためにご自身を献げてくださった」(4) 第一にキリストの十字架は私たちの罪の赦しのためでした。「今の悪の世から私たちを救い出そうとして」(4) 第二にキリストの十字架は今生きている世にあって私たちを奇跡によって救うためでした。「父なる神の御心に従って」(4) 第三にキリストの十字架は神の大いなる計画の実現でした。一人一人に神の計画があります。
2023年7月23日 礼拝 岡田文美佳副牧師
「『エッファタ』・開け!」マルコによる福音書 7章31〜37節
「そして、天を仰いで呻き、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきりと話すようになった。」(マルコによる福音書7:34〜35)
①一人一人に向き合われる主。
「この人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾を付けてその舌に触れられた。」(33) イエス様はこの耳の聞こえない一人と向き合われました。この人に分かる方法で、段階を踏みながら関わられました。イエス様は私たちにも同じようになさいます。
②『エッファタ』・開け!
神様に対し、人に対し心を閉ざしやすい私たちにイエス様は声をかけ続けてくださいます。「開け!」(開かれ続けよ)と宣言してくださいます。主の声に心を開きましょう(ヨハネの黙示録3:20)。
③主は、すばらしい恵みの業をなされます。
「この方のなさったことはすべて、すばらしい。」(37) イエス様の言葉が宣言され、この人は癒やされました。イエス様は、恵みの業を必ず見せてくださいます。
今日、「開け!」の宣言のお声を私たちは聞きましょう。
2023年7月16日 特別伝道礼拝 湯澤宣道牧師(二俣川キリスト教会)
「死から命へ」ローマの信徒への手紙 6章23節
「罪の支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠の命なのです。」(ローマの信徒への手紙6:23)
お金や名声のみを追いかけるのではない、生きるに値する人生とは何でしょうか。私たちの人生はどうでしょうか。使徒パウロはそれを指し示しています。
①罪の支払う報酬は死
「罪」とは、愛をもって世界とそこに住む私たち人間を造られた創造主なる神をないがしろにした人生のことです。そしてそのような人生は「死」をもたらすのです。死とは何でしょうか。「死とは愛の神を拒んだ人間に対する裁きであり、生きることの意味が分からないままに生きてゆかなければならない現実そのもののことである」(E・ブルンナー)。
②神の賜物は永遠の命
愛の神は御自身に背いた私たち人間を見限りなさいません。ひとり子キリストを世に遣わし、私たちに代えて十字架につけてくださいました。背きの罪を悔い改めてキリストを信じる時、私たちは愛の神のもとに立ち返らせていただくことができ、溢れる平安と喜びにあずかります。これこそが「永遠の命」です。
生きる意味も、目的もなく空しい人生を送っているかたがありますなら、イエス・キリストをあなたの救い主として信じ受け入れませんか。あなたは神と共なる平安と喜びに生きる者としていただくことができるのです。
2023年7月9日 礼拝 岡田順一牧師
「キリストを預言したイザヤ」ヨハネによる福音書 12章37〜43節
「イザヤは、イエスの栄光を見たので、このように言い、イエスについて語ったのである。」(ヨハネによる福音書12:41)
「イザヤは、イエスの栄光を見た」とは、イザヤはキリストについて、いかなる栄光を見たのでしょうか。
①キリストのご生涯における栄光。
「おとめが身ごもって男の子を産み」(イザヤ7:14) 真の救い主がおとめ(処女) から誕生することをイザヤは預言しました。誕生における栄光です。「闇の中を歩んでいた民は大いなる光を見た。」(イザヤ9:1) キリストの宣教による栄光です。「彼が受けた打ち傷によって私たちは癒やされた。」(イザヤ53:5) 十字架によるキリストの犠牲による栄光です。
②キリストの御業による栄光。
ヨハネはイザヤの見たキリストの栄光についてイザヤ書53章と共に6章を引用しています(40)。イザヤは神の聖さに触れた時「ああ、災いだ。」(イザヤ6:5) と自らの汚れを自覚しました。神はそのイザヤに神の使いによって祭壇の上から火箸で取った炭火でイザヤの唇に触れました。それによってイザヤはきよめられました。キリストのきよめる御業の栄光です。
2023年7月2日 礼拝 岡田順一牧師
「永遠の救いか永遠の滅びか」イザヤ書 66章10〜17, 22〜24節
「私の造る新しい天と新しい地が 私の前にいつまでも続くように あなたがたの子孫とあなたがたの名も いつまでも続く-主の仰せ。…彼らは出て行き、私に背いた者たちの死体を見る。」(イザヤ書66:22,24)
①永遠の滅びの事実。
「彼らは出て行き、私に背いた者たちの死体を見る。それに付く蛆は絶えず それを焼く火は消えることがない。」(24) イザヤ書は永遠の滅びの光景で締めくくられています。「体は殺しても、命は殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、命も体もゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイ10:28) 神は私たちを永遠に滅ぼすことのできるお方です。
②永遠の救いの事実。
「私の造る新しい天と新しい地が 私の前にいつまでも続くように」(22)「私は、新しい天と新しい地を見た。…『神自ら人と共にいて、その神となり、目から涙をことごとく拭い去ってくださる。もはや死もなく、悲しみも嘆きも痛みもない。』」(黙示録21:1,3~4) ここに永遠の救いに至った人の幸いが記されています。永遠の滅びではなく永遠の救いに至りましょう。