メッセージ 2020年1月〜3月


2020329日 礼拝 岡田順一牧師

「十字架上の赦しの祈り」ルカによる福音書 233238

「そのとき、イエスは言われた。『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。』」(ルカによる福音書23:34

 

①呼びかける父を持つ幸い。

主イエスの十字架上における最初の言葉は「父よ、彼らをお赦しください。」であり、最後の言葉は「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」(46)でした。「父よ」で始まり「父よ」で終っています。これは人生の試練を歩む私たちへの模範です。どのような状況にあっても神を信じる者は、呼びかける父を持っているということです。そこに幸いがあります。

 

②知らない罪をも赦される幸い。

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」自分が罪を犯していることを本人は知っているはずです。しかしその犯した罪の結果を多くの人は知りません。罪赦された私たちも、罪の災いの結果が、これからでも私たち自身にあるいは私たちの家族に及ぶかもしれません。主イエスは十字架上で私たちが実際に犯した罪も、その罪の災いの結果も「父よ、彼らをお赦しください。」と祈ってくださいました。この祈りのゆえに知らない罪をも赦されているのです。


2020322日 礼拝 岡田順一牧師

「困難を感じる時の祈り」ルカによる福音書 1818

「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、」(ルカによる福音書18:1

 

世界的に広まる新型コロナウイルス感染症の猛威を神様はなぜおゆるしになっておられるのか、定かには分かりませんが、祈りのうちに与えられた「気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために」との御言葉に注目したいと思います。

 

①困難に際して人間は気を落とす者である。

たとえに出て来る婦人はやもめであり、誰も助けてくれず、トラブルに巻き込まれ、訴えたのは悪い裁判官でした。どんなに気を落としたことでしょう。しかし彼女はひっきりなしに訴え続けました。私たちもいかに心が暗くなっても祈り続けることを主は願っておられます。

 

②困難に際して神は祈りに答えてくださる。

「まして神は…選ばれた人たちのために」(7) 選ばれた人とは救われている人、神の子とされている人です。「自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」(11:13) 私たちの信じる天の父は、困難に際して必ず答えてくださいます。


2020315日 礼拝 岡田順一牧師

「神の御前に正直に」ルカによる福音書 18914

「徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』」(ルカによる福音書18:13

 

①ありのままで神に祈る。

ファリサイ派の人と徴税人は共に礼拝を守る信仰者でした(10)。ファリサイ派の人は、自分の行いを神に祈りの中で告げています(12)。神は告げられなくてもすべてを知るお方です。ですから彼の祈りは、自分への祈りです。自分を安心させるための自己防衛です。それに対して徴税人の祈りは「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と、神の御前に、正直にありのままに祈りました。そういう祈りを神は喜んでくださいます。

 

②人の欠けを補う神への祈り。

「罪人のわたしを憐れんでください」 徴税人は自分を罪人のわたしと呼びました。彼は信仰者であって、罪は赦されていました。彼の求めは救いではなく、自分の弱さ、欠けに対する求めでした。主イエスは、彼の祈りに「へりくだる者は高められる」(14) と答えられました。へりくだる者とは、正直に神の御前に出る人です。その欠けを神は補ってくださいます。


202038日 礼拝 岡田順一牧師

「絶えず祈る人の幸い」ルカによる福音書 1818

「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。」(ルカによる福音書18:7

 

「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために」(1)

新型コロナウィルス感染症の心配、恐れのある中、イエス様がここにおられたなら、「気を落とさずに絶えず祈りましょう」と私たちを励ましてくださったに違いありません。

 

①祈りの聞かれる環境にあることを信じて祈る。

神を畏れない裁判官が一人のやもめの訴えを「あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をして」(5) あげました。「まして神は」(7) 愛に満ち正義あるお方です。天において主の執り成してがあります(ローマ8:34)。私たちは常に祈りの聞かれる環境にあります。

 

②祈り続ける者をきよめる神。

絶えず祈る人は、神と長い時間を過ごすうちに神の愛ときよさの感化を受けることができます。「自分は神など畏れないし、人を人とも思わない」(4) 祈りは悪い裁判官にも罪の自覚を与え、隣人のために善を成す人に変えました。


202031日 礼拝 岡田順一牧師

「キリストの再臨に備えよ」ルカによる福音書 172237

「稲妻がひらめいて、大空の端から端へと輝くように、人の子もその日に現れるからである。」(ルカによる福音書17:24

 

①キリストの再臨とは。

「イエスは、天に行かれたのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」(使徒言行録1:11)  旧約の預言が主イエスの誕生によって実現したように、主は必ずまたおいでになります。それは信じる者に救いの完成の時となります。

 

②平穏な心で主の再臨を待つ。

テサロニケ教会で、主の再臨が近いので仕事をしてる場合ではないと考える人々がいました。その人々にパウロは「落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み」(テサロニケ一4:11)「自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい」(テサロニケ二3:12)と勧めました。平穏な心で主を待つべきです。

 

祈りの生活によって主の再臨を待つ。

洪水によって滅びたノアの時代の人々、神に裁かれたソドムの人々は祈りの無い生活をしていました(2630)。再臨の主をお迎えする最もふさわしいのは、祈りの生活です。主の再臨の時「一人は連れて行かれ、他の一人は残される」(3435)   一人一人の祈りの生活が今、問われています。


2020223日 礼拝 岡田順一牧師

「神の国は心にある」ルカによる福音書 172021

「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(ルカによる福音書17:21

 

神の国とはイエス様のおられる所、神の支配されている所です。イエス様は信じる者の心におられますから、神の国は信じる者の心にあります。神の国が心にあるとはどういうことでしょうか。

 

①神の国は神の赦しの恵みに満ちている。

15章において主イエスは九十九匹を野原に残して見失った一匹を捜し回る羊飼い、無くした一枚の銀貨を見つけるまで捜す婦人、帰って来た放蕩息子を抱き締める父のたとえを通して無条件の赦しを語られました。神の国はこの神の赦しの恵みに対する感謝に満ちているはずです。

 

②神の国は神の愛に満ちている。

主イエスの無条件の赦しの動機は敵をも愛する神の愛です。私たちの心に住まわれる主は愛に満ちておられます。私たちの心に敵をも愛する愛があるでしょうか。

 

神の国は神を信じる人の心にもたらされる。

主は「神の国はあなたがたの間にある」と言われましたが、私たちの心は神の赦し、神の愛に満ちていないように思えます。その原因は心の中心に主をお迎えしていないからです。主を心の中心にお迎えしましょう。


2020216日 礼拝 岡田順一牧師

「感謝する人の幸い」ルカによる福音書 171119

「その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。」(ルカによる福音書17:1516

 

①感謝する人は良い関係を作る人。

主イエスは十人の重い皮膚病の人を癒されましたが、主に感謝するために戻ってきたのは一人のサマリア人だけでした(16)。対立関係にあるユダヤ人である主に感謝することの出来たこの人は、良い関係を作る幸いな人です。

 

②感謝する人は心の癒された人

十人の重い皮膚病の人たちは皆、主の言葉を信じて癒されました。しかし九人は、自分の病気さえ治ればいいという信仰だったので、主に感謝しませんでした。自分の都合の良いことになったら感謝しない心。その心はどこか病んでいます。癒してくださった主に感謝する人こそ、心も癒された人です。

 

③感謝する人こそ真の礼拝者。

神を賛美しながら戻って来た…イエスの足もとにひれ伏して感謝した。」神を賛美し、主の御前にひれ伏す姿こそ、礼拝者の姿です。主は彼を「神を賛美するために戻って来た者」(18)と、真の礼拝者であることを認められました。


202029日 ファミリー礼拝 岡田順一牧師

「価値のある生き方」ルカによる福音書 15810

「見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。」(ルカによる福音書15:9

 

①どうしても必要なこと。

「見つけるまで念を入れて」(8) ドラクメ銀貨は十枚一揃えであり、無くした一枚は見つけるまで捜す価値がありました。人生にもどうしても必要なことがあります。

 

②私たちに必要なこと。

私たち人間が見つけるまで捜さねばならないことは、神を信じる心です。神を信じない人は信仰心を無くした人です。神を信じることは神の愛を知り、神の愛の豊かな注ぎを受け、神の愛に生きる者となります。愛の無い人生こそ価値無き人生です。神を信じて愛に満ちた価値ある人生を歩みましょう。

 

③私たちを必要としている神。

神様が見つけるまで捜しておられるのは、私たち人間のことです。百円玉を無くしたとして、その百円玉はどこかに存在し百円の価値がありますが、持ち主の手に握られてはじめてその価値が発揮されます。私たち人間も、神を信じ神の手に握られてはじめて価値ある人生を歩むことが出来ます。


202022日 礼拝 岡田順一牧師

「からし種一粒ほどの信仰」ルカによる福音書 17110

「使徒たちが、『わたしどもの信仰を増してください』と言ったとき、主は言われた。『もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、「抜け出して海に根を下ろせ」と言っても、言うことを聞くであろう。』」(ルカによる福音書17:56

 

①からし種一粒ほどの信仰とは。

「この桑の木に」と主は目の前にある桑の木に目を向けさせました。からし種一粒ほどの信仰とは、第一に現実にあてはめる信仰です。その桑の木が抜け出して海に根を下ろすことがあると言われました。からし種一粒ほどの信仰とは、第二に自分の考えを超えた神の最善を信じる信仰です。

 

②からし種一粒ほどの信仰を働かせる場。

第一につまずきの場。小さい者をつまずかせる罪、キリストにつまずく不信仰(マタイ11:6)。自分につまずく自我。(マタイ18:69)。そこに信仰を働かせます。第二に赦しの場。隣人を赦すために、まず自分が赦されていることに信仰を働かせます。第三に奉仕の場。「わたしどもは取るに足りない僕です」(10) 素晴らしい奉仕をした時、主に栄光を帰し、人に見られない奉仕も感謝する人こそ信仰によって奉仕する人です。


2020126日 礼拝 岡田順一牧師

「天国に入れる人とは」ルカによる福音書 161431

「アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」(ルカによる福音書16:31

 

①人生の総決算の時がある。

たとえの中で金持ちは死んだ後「陰府でさいなまれ」(23)と永遠の滅びに向い、貧しいラザロは死んだ後「アブラハムのすぐそばに連れて行かれ」天国に入ることができました(22)。誰でも人生の総決算の時がやってくるのです。

 

②天国に入れない人。

金持ちは「毎日ぜいたくに遊び暮らして」(19)、神に全く感謝しませんでした。また貧しく病気のラザロが門前にいたのに少しも愛を注ぎませんでした(20)。金持ちは神を信じなかったので感謝と愛の生活ができず永遠の滅びに向いました。

 

天国に入れる人。

ラザロは不幸の中にも神を信じ「食卓から落ちる物で腹を満たしたい」(21)と、へりくだって生活しました。金持ちが自分の兄弟の救いを願った時「お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる」とアブラハムは神の言葉を信じる道を勧めました。へりくだった信仰、御言葉への信仰が天国への道を開きます。


2020119日 礼拝 岡田順一牧師

「小さな事に忠実な人」ルカによる福音書 16113

「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。」(ルカによる福音書16:10

 

①危機的状況の自覚。

このたとえの登場人物は金持ちの主人である神様と、財産の管理人である人間です。主人は管理人に「もう管理を任せておくわけにはいかない」(2)と告げました。私たちは神様から健康、家族、財産、仕事、時間、賜物などたくさんのものを託されていますが、それを有効に用いているでしょうか。その決め手は託されているものについて「ごく小さな事に忠実」であるかどうかです。そうでないなら危機的状況を自覚すべきです。

 

②信仰による知恵の必要。

不正を犯した管理人はこの世の知恵で危機を逃れようとしました。「主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめ」ました(8)。「この世の子ら」である罪人たちは必死にこの世の知恵を用いて自分の都合のいいように生きようとしますが、「光の子ら」である神を信じる私たちは、人生の危機に対して必死に祈り、必死に御言葉に依り頼むべきです。そうする時「本当に価値あるもの」を手にすることが出来ます(11)


2020112日 礼拝 杉本潤牧師(北海道KGK主事)

「『その日』を覚えて生きる」マラキ書 31324

マラキ書の時代は、形だけの礼拝、結婚や神への捧げものも自分たちの都合の良いように生きるそのような時代でした。神礼拝が形骸化していく中で、信仰に生きることが決してむなしく終わらないことを神は預言者マラキを通して語ります。

 

①神を恐れ、神にとどまり歩む姿勢は神に覚えられている

「そのとき、主を畏れ敬う者たちが互いに語り合った。主は耳を傾けて聞かれた。神の御前には、主を畏れ、その御名を思う者のために記録の書が書き記された。」(マラキ316)

 

②神を恐れて生きる者に与えられている約束は、癒しと喜びである

「見よ、その日が来る 炉のように燃える日が。高慢な者、悪を行う者は すべてわらのようになる。…しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには 義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある。あなたたちは牛舎の子牛のように 躍り出て跳び回る。」(319,20)

 

 信仰が失われていく今の時代にあっても、私たちは与えられている神のことばに信頼し、やがて来る「その日」まで、主を見上げ、神に仕える者であり続けましょう。


202015日 新年礼拝 岡田順一牧師

「イエスの弟子として歩む」ルカによる福音書 142535

「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。」(ルカによる福音書14:27

 

①イエスを第一として歩む人。

「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」(26) イエスを第一にすることを通して、家族への愛を神から供給し、また永遠の命に生きることができます。

 

②イエスを模範として歩む人。

「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない」十字架にかかられたイエスの模範とは、イエスの祈りの生活と、「死から救う力のある」神への信仰に学ぶことです(ヘブライ5:710)。

 

イエスを導き手として歩む人。

「自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない」(33) 自分の持ち物とは、自分の計画、人生設計です。人生の、一年の計画に、導き手である主を組み入れてこそ、祝福が実現します。