メッセージ 2022年1月〜3月


2022327日 礼拝 岡田順一牧師

「絶望における祈り」イザヤ書 3813

「ヒゼキヤは顔を壁に向け、主に祈って、言った。『ああ、主よ、私がまことを尽くし、誠実な心で御前に歩み、あなたの目に適う良いことを行ってきたことを思い起こしてください。』ヒゼキヤは涙を流し激しく泣いた。」(イザヤ書38:23

 

①試練における二つの現実。

「ヒゼキヤは死の病にかかったが、…イザヤがやって来て言った。『主はこう言われる。「あなたはやがて死ぬ。生き長らえることはない。」』」(1)ヒゼキヤは死の病の宣告を受けました。その時ヒゼキヤは主に祈りました(2)。死の病の現実と共に、祈った後の現実があることを彼は知っていました。

 

②絶望における祈り。

「あなたはやがて死ぬ」との宣告に対してヒゼキヤは第一に主に向かって祈りました。「顔を壁に向け」とは主にのみ集中する祈りです。この絶望的現実を変えられるのは主のみであると信じて祈りました。第二に彼は主の愛に頼って祈りました。3節において彼は自分と主とのまことの関係、誠実な関係、目に適う関係を祈りました。その関係はすべて主の愛における関係でした。彼は今日までの主の愛に頼って祈りました。


2022320日 礼拝 岡田順一牧師

「祈りによる勝利」イザヤ書 373038

「私のため、また私の僕ダビデのため 私はこの都を守り、これを救う。」(イザヤ書37:35

 

①神による最善の応え。

「その実りを食べよ。」(30) ヒゼキヤ王の祈りに神は、祖国で実りを食べよと約束しました。それは異国に「連れて行く。」(36:17) との敵将軍の言葉に優る応えでした。

 

②神による完全な応え。

「主の使いが現れ、アッシリアの陣営で十八万五千人を打ち殺した。」(36) ヒゼキヤ王と国民の祈りは神に届き、主の使いによって無傷の完全な勝利がもたらされました。

 

祈りに応える神の動機。

神の応えは遜る者への応えです。ヒゼキヤは自分に「力がない。」(3) と遜って認めました。「神は、高ぶる者を退け へりくだる者に恵みをお与えにな」ります(ヤコブ4:6)。さらに神は「ダビデのため」に祈りに応えました。それはダビデの子孫から誕生する救い主のためです。救い主誕生は「万軍の主の熱情がこれを成し遂げる。」(9:6) と、神の愛の熱情によってでした。ヒゼキヤの祈りも「万軍の主の熱情がこれを成し遂げられる。」(32) 同じ神の愛によって神は祈りに応えてくださいます。


2022313日 礼拝 岡田順一牧師

「信仰の祈り」イザヤ書 37120

「私たちの神、主よ、どうか今、私たちを彼の手から救ってください。そうすれば、地上のすべての王国は、あなただけが主であることを知るようになるでしょう。」(イザヤ書37:20

 

①ピンチをチャンスとする祈りの力。

「ヒゼキヤ王はこれを聞くと…主の神殿に行った。」(1) アッシリアの大軍を前にして、ヒゼキヤ王はまず祈るために神殿に行き、さらに使者をイザヤに遣わし、自分に「力がない。」(3) ことを認め「祈りを献げてください。」と祈りの要請をしました(4)この祈りがピンチをチャンスとしました。

 

②信仰による祈り。

ヒゼキヤ王の祈りにおける信仰は第一に神の臨在を信じた。「ケルビムの上に座しておられるイスラエルの神」(16) と、すべてのものの上におられてすべてを知っておられる神を信じた。第二に創造主を信じた。「あなたが天と地をお造りになったのです。」(16) 敵の大軍もヒゼキヤの目には神の披造物として見えたのです。第三に唯一の神を信じた(1719)。主なる神だけが救ってくださると信じた。第四にすべての人のための神を信じた。「あなただけが地上のすべての王国の神」(16) と信じた。  


202236日 礼拝 岡田順一牧師

「沈黙による勝利」イザヤ書 361322

「しかし、彼らは押し黙って一言も答えなかった。答えてはならないというのが王の命令だったからである。」(イザヤ書36:21

 

①アッシリアの攻撃とサタンの誘惑。

アッシリアの将軍ラブ・シャケは南ユダに心理戦を挑みました。その内容はサタンがキリスト者を誘惑する手段に似ています。第一に恐怖心に働きかけます。「ラブ・シャケは立ち上がり…大声で叫んだ。」(13) 上から大声で脅しました。第二に不信仰に誘います。「ヒゼキヤが、『主が私たちを救い出してくださる』と言っても惑わされるな。」(18) 神の言葉を疑わせようとしました。第三に見せかけの保証で誘惑しました。「パンとぶどう畑の土地にまで連れて行く。」(17) 私たちを最も良い地である御国に連れて行ってくださるのは主だけです。

 

②沈黙による勝利。

ラブ・シャケに対するヒゼキヤの命令は「答えてはならない」と、沈黙でした。この命令の第一の意味は国民への祈りの要請です。祈りによって神に頼ることでした。第二の意味はラブ・シャケの悪い感情に対して敵意という感情に負けないためでした。敵意という感情に対する沈黙こそ勝利の秘訣です。


2022227日 礼拝 岡田順一牧師

「聖なる道を歩む」イザヤ書 35510

「そこには大路が敷かれ その道は聖なる道と呼ばれる。汚れたものはそこを通ることはない。」(イザヤ書35:8

 

①神による回復の御業。

「見えない人の目は開けられ 聞こえない人の耳は開かれる。その時、歩けない人は鹿のように跳びはね」(56) とイザヤは預言しました。バプテスマのヨハネが弟子を主イエスの所に遣わし「来るべき方は、あなたですか。」と尋ねさせました。主イエスは「見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、規定の病を患っている人は清められ、耳の聞こえない人は聞こえ」と言われました(マタイ11:45)。イザヤの預言は主イエスによって実現しました。

 

②神の大路を歩む。

神の大路を歩む人に救いはもたらされます。それは神によって敷かれた道です。「あなたの言葉は私の足の灯 私の道の光。」(詩編119:105) 神の言葉を信じる者こそ神の大路を歩む人です。「イエスは言われた。『私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行くことができない。』」(ヨハネ14:6) 主イエスを信じることこそ神の大路なのです。


2022220日 礼拝 岡田順一牧師

「回復の希望」イザヤ書 3517

「弱った手を強くし 萎えた膝を確かにせよ。心を騒がせている者たちに言いなさい。『強くあれ、恐れるな。見よ、あなたがたの神を。』」(イザヤ書35:34

 

①神による永遠の回復の計画。

「神は来られ、あなたがたを救う。」(4) イザヤは三つの時を意識していました。第一にイザヤの時代の約二百年後、バビロン帝国に滅ぼされて捕囚の身の上になった時です。第二にイザヤの時代の約七百年後、真の救い主の誕生の時です。第三にやがてキリストが再臨されて救いが完成される時です。神は私たちのために永遠の回復の計画をもっておられます。

 

②心を騒がせる者への神の励まし。

「弱った手を強くし 萎えた膝を確かにせよ。」やがて起こるバビロン捕囚の時のための神からの励ましの言葉です。弱った手とは奉仕の手です。捕囚の身の上になる時、奉仕の場を失います。その時、この状況の中でも自分の手を通して何が出来るかを神に聞くことです。萎えた膝とは長い捕囚によってあきらめやすくなり、祈りが弱体化することです。どのような状況でも、あきらめない決心をして神に仕えましょう。


2022213日 礼拝 岡田順一牧師

「神の言葉である聖書」イザヤ書 341617

「主の書を調べて、読め。これらのうち、一つも欠けるものはない。それぞれが相手を見いだせないことはない。主の口が命じ その霊が集めたからである。」(イザヤ書34:16

 

①不確かなこの世における確かな御言葉。

「エドムの地で大殺戮がなされる」(6) エドムに対して神の厳しい裁きが預言されました。その理由はエルサレムの人々がバビロン捕囚の最中に苦しんでいた時、エドムはエルサレムの弱さに付け込んで搾取を繰り返したからです(詩編137:7)。この不確かな、不条理のこの世に対して神は「主の書を調べて、読め」と確かな御言葉に向かわせました。

 

②確かな御言葉を信じる幸い。

主の書である聖書の確かさの理由は「主の口が命じ その霊が集めたからである。」(16) 聖書こそ神の口から出た神の言葉だからです。聖書66巻は数千年かけて数十人の執筆者によって記されましたが、その内容は一貫しています。それは「霊が集めた」(16) 「聖書はすべて神の霊感を受けて書かれた」(テモテ二3:16) からです。私たちもコロナ禍にあって不確かな時に「主の書を調べて、読め」との主の命に従うべきです。


202226日 礼拝 岡田順一牧師

「朝ごとの神の救い」イザヤ書 3316

「主よ、私たちを憐れんでください。私たちはあなたを待ち望みます。朝ごとに私たちの腕となり 苦難の時に私たちの救いとなってください。」(イザヤ書33:2

 

①危機における信仰の祈り。

アッシリアの攻撃に国家的危機に陥った南ユダのためにイザヤは「主よ、私たちを憐れんでください。私たちはあなたを待ち望みます。」(2) と祈りました。国家的危機においてイザヤは「私たちを」と全国民のために神の助けを祈りました。さらに「私たちは」とこの危機に際して多くの人が神を待ち望む信仰を持つチャンスと捉え、信仰復興のために祈りました。

 

②朝ごとの祈り。

イザヤはさらに「朝ごとに私たちの腕となり 苦難の時に私たちの救いとなってください」(2) と祈りました。イザヤは迫っている国家的危機に「救ってください」ではなく「救いとなってください。」と祈りました。イザヤはこの時だけの救いではなく、救いとなってくださる神と共に歩み、いかなる苦難の時にも救われる信仰をもっていました。それは「朝ごとに」毎日の信仰であり、すべての始まりにおける信仰だったのです。


2022130日 礼拝 岡田順一牧師

「聖霊による恵みの回復」イザヤ書 321520

「しかし、ついに、高き所から 霊が私たちの上に注がれる。すると、荒れ野は果樹園となり 果樹園は森とみなされる。」(イザヤ書32:15

 

①唯一の救い主。

「正義によって一人の王が統治し」(1) 「一人の王」とはやがて来られる救い主のことです。救い主についてイザヤは「一人のみどりごが私たちのために生まれた。一人の男の子が私たちに与えられた。」(9:5) 「エッサイの株から一つの芽が萌え出で」(11:1) と、一人、一人、一つと預言し、今回も「一人の王」と預言しました。預言の成就としてクリスマスに誕生されたイエス・キリストこそこの世において唯一の救い主なのです。

 

②救いを成し遂げる聖霊。

キリスト昇天の後、聖霊が注がれたように、イザヤは一人の王の統治の後「高き所から 霊が私たちの上に注がれる。」(15) と預言しました。「私たち」とは、主なる神ではなくエジプトに頼ろうとしている南ユダの人々です。聖霊は「石の心を取り除き、肉の心を与える」お方です(エゼキエル36:26)聖霊が頑固な石の心を柔らかな肉の心に変えてくださいます。


2022123日 礼拝 岡田順一牧師

「守ってくださる神」イザヤ書 3119

「空を飛び回る鳥のように 万軍の主はエルサレムを守られる。これを守り、救い、助け、解放する。」(イザヤ書31:5

 

①誤ったエジプトの魅力。

アッシリアの裏切りに対してエジプトを頼ろうとする南ユダの人々に神は「災いあれ、助けを求めてエジプトに下り 馬を頼みとする者に」(1) と言われました。南ユダの人々は馬、戦車、エジプトの戦力の魅力に引かれました。その結果、彼らは「聖なる方に目を向けず 主を求めようとも」しませんでした(1)。この世の誤った魅力は私たちを神から遠ざけます。

 

②誤った者をも守る神。

誤った道を歩もうとする南ユダの人々に神は「空を飛び回る鳥のように 万軍の主はエルサレムを守られる。」(5) と言われました。(口語訳「鳥がひなを守るように」)私たちと神との関係は母鳥とひなの関係です。私たちは弱いひなのような存在です。その私たちを神は母鳥のように守ってくれます。その守り方は「これを守り、助け、かばって救われる。」(5新共同訳と。母鳥が自分を犠牲にして外敵、山火事からひなを守るように、神は、今年も私たちを守ってくださることを信じましょう。 


2022116日 礼拝 岡田順一牧師

「恵みを与える神」イザヤ書 301826

「それゆえ、主はあなたがたを恵もうと待ち あなたがたを憐れもうと立ち上がる。主は公正の神であられる。なんと幸いなことか、すべて主を待ち望む者は。」(イザヤ書30:18

 

①恵みを与える神。

神は私たちを「恵もう…憐れもう」としておられます。主は「必ずあなたに恵みを与えてくださ」います(19)。放蕩息子が父親の所に帰った時「父親は息子を見つけて、憐れに思い」ました(ルカ15:20)。イザヤ時代も、主イエスの時代も、そして今日も神の手の中には恵みと憐れみが握られています。

 

②恵みを与える神を信じる。

恵みを与えてくださる神に対して私たちは「主を待ち望む者」(18) としてどのような状況にも神の恵みを待ち続けましょう。「直ちにあなたに答えられる。」(19) との神の約束を信じて、神に叫ぶような祈りをささげ続けましょう。

 

神が与える恵み。

神は信じる者に生きるために必要な物を与え(23)、心身における癒しを与えられます(26)しかし最大の恵みは、神が人生の導き手として私たちと共に歩み「これが道だ、ここを歩け」と御言葉をもって導いていただけることです(2021)


202119日 礼拝 岡田順一牧師

「神に信頼する人の力」イザヤ書 30817

「主なる神、イスラエルの聖なる方はこう言われる。『立ち帰って落ち着いていれば救われる。静かにして信頼していることにこそ あなたがたの力がある。』」(イザヤ書30:15

 

①人間のみに頼る危うさ。

アッシリアに裏切られた南ユダの人々は、それに反省せず今度はエジプトに頼ろうとしました。神は人間のみに頼ろうとする民に「それは私から出たものではない。…私の霊によってではない…私の指示を求めようとしない。」(12) と言われました。私たちも何事も祈りによって神の指示を求め、聖霊に導かれて、神から出たことを確信して行動すべきです。

 

②神に静かにして信頼する。

反省しない南ユダの人々に神は「立ち帰って落ち着いていれば救われる。静かにして信頼していることにこそ あなたがたの力がある。」と霊的アドバイスを与えました。神に静かに信頼するとは、100%の信頼をもって神に祈る姿勢です。かつて南ユダの民がアッシリアに頼ろうとした時も、神は「気をつけて、静かにしていなさい。」(7:4) と勧めました。反省しない民に神は何度でも、神に信頼することを求められます。


202212日 新年礼拝 岡田順一牧師

「私を忘れない神」イザヤ書 491417

「女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。自分の胎内の子を憐れまずにいられようか。たとえ、女たちが忘れても 私はあなたを忘れない。見よ、私はあなたを手のひらに刻みつけた。」(イザヤ書49:1516

 

①私を忘れない神。

「自分の胎内の子を憐れまずにいられようか。」「憐れむ」とは「我を忘れる」という意味です。母親は我が子に我を忘れてしまうほどの愛を注ぐ存在です。「女たちが忘れても」とは母親が我が子を忘れることです。それは本来、あってはならないことです。しかし有り得ない悲劇が万が一にでも起こったとしても神は「私はあなたを忘れない。」と言ってくださるのです。

 

②神が私を忘れない根拠。

「私はあなたを手のひらに刻みつけた。」神が私たちを手のひらに刻むとは、私たちを絶対に忘れないということです。神が私たちを絶対忘れない根拠は神の愛です。神はあなたの名前だけでなく、その人格、姿、事情、環境、罪、誘惑、弱さ、欠乏、働き、すなわちあなたのすべてを手のひらに刻みました。それはあなたのすべてを知って愛してくださるためです。