メッセージ 2018年4月〜6月


2018624日 弾圧記念礼拝 岡田文美佳副牧師

「信仰は試されて」ペトロの手紙 一 139

「あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。」(ペトロの手紙 一 1:7

 

①弾圧の証人。

1942昭和17年)626日早朝、全国のホーリネス系諸教会牧師に対する宗教弾圧(一斉検挙)がなされた。

「自分の過去がいかなるものかを知らない国民は、現在においても容易につまずく可能性がある。」とはボンフェッファーの言葉です。後の時代に生きる私たちが、弾圧の出来事、その信仰を受け止め続け、学び続けることの意義を覚えます。

 

②試練によって精錬される信仰。

神に愛され救われている私たちにも試練、苦しみはあります。クリスチャンになったがゆえにおそってくる試練もあります。試練は決して好ましいものではありませんが、試練を通して信仰の成長、品格の整えがなされるのです。そして、辛い、苦しい出来事の中に、神様は共にいてくださり、生き生きとした信仰による希望を与え(ペトロの手紙 一 1:3)、決して消えない天につながる恵みを受け継ぐ者としてくださいます。


2018617日 礼拝 岡田順一牧師

「キリストによる変革」ルカによる福音書 62036

「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。」(ルカによる福音書6:31

 

①幸福観の変革。

イエス様は貧しい人、飢えている人、泣いている人、憎まれている人こそ幸いであると言われ(2022)、富んでいる人、満腹している人、笑っている人、ほめられている人は不幸だと言われました(2426)。この逆説の意味は前者の幸いな人々とは神を必要として神に求め神に出会った人々であり、後者の不幸な人々とは自分を第一にして神を必要としない人々だからです。

 

②価値観の変革。

「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」とイエス様はキリスト者の生き方を教えました。それは特に愛において「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい」(27)と言われました。それは救われる前の私たちには不可能でした。救われて神の子としていただいた私たちに主は「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」(36)と言われました。父なる神の愛が注がれているがゆえに神の子である私たちの内側に愛の変革が起こされるのです。


2018610日 礼拝 岡田順一牧師

「弟子を選ぶイエスの祈り」ルカによる福音書 6章12〜19節

「イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。朝になると弟子たちを呼び集め、その中から十二人を選んで使徒と名付けられた。」(ルカによる福音書6:1213

 

①弟子を使徒とされたキリスト。

「弟子たちを呼び集め…使徒と名付けられた」キリストは「弟子」(習う者)を「使徒」(使命を与えられて派遣される者)とされました。この使徒たちが初代教会の土台となりました(エフェソ2:20)。私たちもただキリストに習う者から使命を与えられて派遣される使徒となるべきです。礼拝の場から家庭に、職場に、学校に、地域に遣わされていくのです。

 

②12使徒を選ばれたキリスト。

「神に祈って夜を明かされた」キリストは徹夜の祈りによって12使徒を選ばれました。夜を明かすとは医学用語で医師が徹夜で患者を看病をする時に使われる言葉です。医師が「この人は大丈夫か、峠を越えられるのか」心配して看病するように弟子たち一人一人のために祈りの格闘をして選ばれました。私たちも主のそのような祈りによって選んでいただいた一人一人であることを感謝し、使徒として歩みましょう。


201863日 特別賛美礼拝 イ・ミヌク牧師(韓国オンヌリ教会副牧師)

「風 道 祈」ヘブライ人への手紙 111316

「彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。」(ヘブライ人への手紙11:16

 

雪国のミッションスクールで書道を教えていた先生が百歳を迎えた時、多くの教え子たちがお祝いに集まりました。イギリスのBBC放送の記者がその方に「どうして雪と風のある所に長く住まわれたのですか」と質問をした。それに対して「風、道、祈」と三つの言葉を筆で書いて答えました。それはその先生の一生を説明する言葉でした。風とは人生における試練を意味しています。道とはその試練のある人生を逃げることなく歩むことを意味しています。祈とは試練のある人生を祈りながら神と共に歩むことを意味しています。祈りながら歩んでも風はなくなりませんが、人生の風を克服する力を神からいただくことができます。風、道、祈、これに徹して歩みますならば行き着く所は「天の故郷」です。それは私たちが思うよりも更にまさった素晴らしい都なのです。


2018527日 礼拝 岡田順一牧師

「安息日の意義」ルカによる福音書 6111

「彼らに言われた。『人の子は安息日の主である。』」(ルカによる福音書6:5

 

①安息日の起源。

第一の起源は天地創造。「第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった」(創世記2:2)神は創造の業に満足し安息されました。私たちも創造主を喜び、良い作品として造られた自らを喜ぶことが安息日の意義です。第二の起源は十戒。安息日を守るべきことを命じられた後、出エジプトを思い起すべきことを教えられました(申命記5:1215)。救いを確認することが安息日の意義です。第三の起源はキリストの復活。土曜安息が日曜礼拝に変更しましたのはキリストが日曜日の朝に復活されたからです。キリストの十字架と復活を覚えることこそ安息日の意義です。

 

②安息日の中心であるキリスト。

「人の子は安息日の主である」安息日は主の御心である神の愛を確認する日です。主は手の萎えた人に「手を伸ばしなさい」と言われました(10)。それは神の愛を拒ませる部分を自分に任せることを求める主の招きの言葉です。私たちも日曜礼拝毎に神の愛を拒ませる一切の部分を神にお任せし、神の愛を確信して歩むことこそ安息日の大いなる意義です。


2018520日 ペンテコステ礼拝 岡田順一牧師

「世に対する聖霊の働き」ヨハネによる福音書 16115

「その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。」(ヨハネによる福音書16:8)

 

①罪についての聖霊の働き。

「罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと」(9)

「罪」とは「的はずれ」の意味ですが、聖霊は私たちにその心から神を締め出し、神を信じないで自分が王となって生きることこそ的はずれの生き方であって、その罪によって自分に不幸を招くことになることを明らかにしてくださいます。

 

②義についての聖霊の働き。

「義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること」(10)

キリストが罪無き義なるお方であることは主の復活と昇天が証明しています。聖霊はこの義なるお方を信じる以外に私たちが義なるものになることはできないことを明らかにしてくださいます。

 

③裁きについての聖霊の働き。

「裁きについてとは、この世の支配者が断罪されること」(11)

この世において罪人である支配者が繁栄しているように思えても聖霊は十字架上の主イエスの姿を通して裁きの時が必ずやってくることを明らかにしてくださいます。 


2018513日 母の日礼拝 岡田順一牧師

「子の美しさを見る母」出エジプト記 2110

「彼女は身ごもり、男の子を産んだが、その子がかわいかったのを見て、三か月の間隠しておいた。」(出エジプト記2:2

 

母の日を覚えて、モーセの母ヨケベドの信仰に学びましょう。

 

①子の美しさを見る母。

ユダヤ人がエジプトにおいて増加した時、エジプト王はユダヤ人から産まれる男の子を殺す命令を出しました。その頃モーセが産まれ、ヨケベドは命懸けでモーセを守ろうとしました。その理由は「その子の美しさを見、王の命令を恐れなかったからです」(ヘブライ11:23)彼女が我が子に見た美しさは外見の美しさだけではなく「神の目に適った美しい子」(使徒言行録7:20)神による美しさを見ました。すべての幼子の中にこの美しさがあります。すべての幼子が霊によって育てられるべきです(ヨハネ3:6)

 

②子の将来を神に託す母。

ヨケベドは自分の力の限界を知り、モーセの将来を神に任せてナイル川に流しました。神はモーセを王女に拾わせ、ヨケベドに戻されました(310)。 ヨケベドはモーセに霊的教育を行い、その教育によって彼は大指導者となっていきました(ヘブライ11:2426)。神に子を託す時、神の最善が行われます。 


201856日 礼拝 岡田順一牧師

「新しい時代の到来」ルカによる福音書 53339

「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない。」(ルカによる福音書5:38

 

イエス様は新しい時代の到来を三つの譬えによって話されました。

 

①結婚の譬え。

「花婿が一緒にいるのに」(34)

花婿とはイエス様のこと、花嫁は私たち信仰者です。花嫁にとって「花婿が一緒にいる」ことは最高の喜びです。信仰者にとってキリストにおいていつも喜んでいることができます(テサロニケ5:1618)。新しい時代とは花婿が一緒にいるので何があっても喜ぶことのできる人生です。

 

②継ぎ当ての譬え。

「新しい服から…古い服に継ぎを当てたりはしない」(36)

この譬えの意味は主は私たちの一部分ではなく全存在を造り変えてくださるということです。新しい時代とは神に一切をお任せして心の奥底まで造り変えていただく恵みなのです。

 

③革袋の譬え。

「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない」

この譬えの意味はイエス様に出会った人の新しい生き方です。中風の人を癒した信仰(20)大漁を与えた希望(6)重い皮膚病の人に触れる愛(13)主に倣って信仰、希望、愛に生きることです。


2018429日 礼拝 岡田順一牧師

「キリストの弟子」ルカによる福音書 52732

「イエスは出て行って、レビという徴税人が収税所に座っているのを見て、『わたしに従いなさい』と言われた。彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った。」

(ルカによる福音書5:2728

 

①無に等しい者を選ぶ神。

「イエスは…見て、『わたしに従いなさい』と言われた」イエス様が見たのはマタイの可能性でした。彼は人々から嫌われる徴税人であり「世の無に等しい者」でした(コリント1:28)。この世の評価はマイナスであっても神の評価はプラスです。キリストの弟子は神の評価を第一にして生きる人です。

 

②キリストに従うキリストの弟子。

マタイへのイエス様の要求は「わたしに従いなさい」でした。それに対して「彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従」いました。キリストの弟子は従う姿勢の出来ている人です。従う程に従う領域が広まっていきます。

 

③キリストを証しするキリストの弟子。

マタイは盛大な宴会を開きましたが、それは伝道集会であり、講師はイエス様、証し者はマタイ自身でした。招かれた人はマタイの仲間の徴税人たちでした。キリストの弟子とは自分の身近な人に神を証しする人です。


2018422日 伝道礼拝 岡田順一牧師

「罪の赦しを告げるイエス」ルカによる福音書 51726

「イエスはその人たちの信仰を見て、『人よ、あなたの罪は赦された』と言われた。」(ルカによる福音書5:20

 

①求める者に答えるキリスト。

中風を患っている人とその友人たちは主に病の癒しを求め、実際に癒されました。彼らはどのように求めたのでしょうか。

第一に熱心に求めました。「男たちは中風を患っている人を床に乗せて運んで来て…イエスの前に置こうとした」(18) 彼らは力を合わせて求めました。「屋根に上って瓦をはがし…病人を床ごとつり降ろした」(19) 彼らは犠牲を惜しまず求めました。

第二に信仰をもって求めました。「イエスはその人たちの信仰を見て」信仰のあるところに主は奇跡を起されます。

 

②罪の赦しを与えるキリスト。

「イエスはその人たちの信仰を見て、『人よ、あなたの罪は赦された』と言われた」彼らは病の癒しを求めましたが、主は罪の赦しの宣言をされました。それは彼らの素晴らしい求めに対して最も良い答えを与えるためでした。私たちが神からいただく最も良いものは罪赦されて救われることです。彼らは主に求めて罪の赦しと病の癒しを与えられました。


2018415日 礼拝 岡田順一牧師

「あわれみの御手」ルカによる福音書 51216

「イエスが手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい。清くなれ』と言われると、たちまち重い皮膚病は去った。」(ルカによる福音書5:13

 

①受け入れる愛。

重い皮膚病はレビ記13章には汚れた病と扱われています。しかしイエス様は手を差し伸べてその人に触れました。それは受け入れる愛の行為です。私たちは病以上に心の汚れた者です。その私たちにも受け入れる愛が注がれているのです。

 

②神の御意思にゆだねる信仰。

「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」(12)と重い皮膚病の人は主の御心を第一にして求めました。その結果「よろしい。清くなれ」との主の言葉によって「重い皮膚病は去った」のです。神の御意思を第一にする時、神御自身が病を取り去ってくださいました。

 

③主のあわれみの御手。

「イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ」(マルコ1:41) 深く憐れむとは「はらわたが痛む」意味です。救い主について「多くの痛みを負い、病を知っている」(イザヤ53:3)と預言されています。主は今日も私たちの祈りに対してその痛み、病を理解して憐れみの御手を伸ばしてくださいます。


201848日 礼拝 岡田順一牧師

「一緒に歩まれるイエス」ルカによる福音書 241335

「話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。」(ルカによる福音書24:15

 

人生を暗くする不信仰。

「二人は暗い顔をして立ち止まった」(17)二人の弟子は主の十字架の死の事実に失望し、復活を信じることが出来ませんでした。その不信仰が彼らの顔を暗くしました。

 

②一緒に歩むことを望むキリスト。

イエス様から遠ざかろうとする二人の弟子に「イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた」「近づいて」とは「追いつく」という意味です。イエス様は遠ざかろうとする者を捜し出し追いかけてくださり、そして見つかったならば大喜びしてくださるお方です。それ程私たちを必要としてくださり、一緒に歩むことを望んでおられるのです。

 

③キリストと一緒に歩む幸い。

二人の弟子は近づいてきてくださった主に今度は自分の方から「一緒にお泊まりください」(29)と頼みました。共に過ごす中に彼らは主に対して目が開かれました(31)。私たちもイエス様に対して「いつまでも一緒にいてください」と願うべきです。主と一緒に歩むことこそ最も良いことなのです。


201841日 イースター礼拝 岡田順一牧師

「復活なさったキリスト」ルカによる福音書 24112

「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」(ルカによる福音書24:56

 

①救いの保証である復活の事実。

「婦人たちは…墓と、イエスの遺体が納められている有様とを見届け、」(23:55)婦人たちはイエス様の死と葬りの事実を確認しました。日曜日の朝、主の墓に行った婦人たちに天使は「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」と復活の事実を告げました。十字架上でイエス様を救い主として信じた犯罪人に主は「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(23:43)と約束されました。イエス様の死、葬り、復活の事実は主の約束が真実であることを保証しています。

 

②私たちと共におられる復活の主。

イエス様の墓に来た婦人たちに天使は「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか」と言いました。復活された主はエマオの途上で二人の弟子に(15)、ペトロにも(34)、他の弟子たちにも(36)御自身を現されました。今日も復活された主は「生きておられる方」として信じる者の心にお住まいくださっています。その事実を信じる者でありましょう