札幌新生教会第6代牧師
伊藤 馨 著『恩寵あふるる記』第一巻より
昭和十七年六月二十六日から翌十八年三月二十五日まで正、九カ月間、私は留置されていた、(中略)ここで取調べうけている九カ月間に私に利益となった事は数々ある。(中略)取調べ中、私にさらに益した事は
「献金と称してこれまで、どれほどの金を集めたか」
と、取調べであった、数十年間の事である。これは(中略)甚だ至難なことであった。
「記憶も不確である。とても出来ませんね」
「何を参考にしてもいいからやれ」
「どんなにしても正確な数字などは…」
「大凡でよい、最善であれば…それでないと困るのだ」
と調官がいう。それは私を起訴する資料に必要なものであるにちがいないと思われた。
私は多くの日数をかけて、主任伝道者となりて後の「献金」を調べたのである。伝道舘時代の家賃から(月給は自給の時まで本部手当で出費)伝道費、旅費、(巡回)毎月の経常費等。
大正七年より天幕伝道開始、一カ所五日間か一週間、それを部内各教会にて行い、また希望要求ある部外の教会などでも行い、また中国九州にも行ったのである。それは毎年春夏秋にかけての行事であった。
また鉄道従業員への精神講話のために巡回、学校、教会での特別講演など、以上は山陰時代であるが、昭和五年、北海道に移ってからは、…わけて昭和八年分離後は道内は勿論、内地、中国辺まで、私は都合をつけては巡回したのである。理由は、折角、ここまで出来上ったホ教会が分離分散してしまう事は如何に大きな損失であり、また不幸な事であろうか。其処で私との関係ある教会、また私を愛して招く教会、友情協力をする教会教友間に許さるるかぎり巡回応援したのである。
勿論、私に私財はある筈がない、さればこの巡回費は献金による他はない。以上かく調べた結果、莫大な金額であったことが判明したのである。勿論、ホ教会牧師である私にとっての事である。その調書をかき上げて提出すると調官は一見して
「外国の方面は何もないね、君は昭和五年と、六年、それに十三年と十四年と、二回渡米している筈だが、ぬけているね」
それも計上した、さらに金額が上る。役人の言い分では、
「献金と称してどれ程の金を集めたか」
というのである。献金とは浄財である、その名目をもって新興宗教などでは金集めをしている。その観点から、この調べを必要としているらしい。かくて、「被告は○○○○の金額を集めて、その運動資金としていた」と、私の起訴状が作製さるるわけである。
翌日、調官は、
「昭和十六年に台湾に行っているね、その費用はどうした、ぬけているよ」
という。ますます詳細漏らさず。
さて献金調書が出来上り、数字的にこれを知って、私は今さらのように驚き、そして、
「これほどの莫大な献金を使用して、さてその働きの成績はまことに微々たるものであり、今また、この弾圧でこの有様で」
と考えると、自責の感に堪えぬのであった。
私は監房の床に額をすりつけて、ざんげし、祈禱したのであるが、いかにしても、しきれず、幾日か、悶々としてすごした。
然るに、神様は私に
「いやお前の働きの不足が問題ではないお前はよく奉仕した、ただ問題は献金である」
と光が来たのである。
◆献金とは…
いうまでもなく献金とは「神に財をささげる奉仕」なのである。これは初代教会からのしきたりで、そしてこれは教会生活者、すべてのクリスチャンの生活の一部でもある。
今私にとって、この献金は問題となったことは、私が莫大な献金を使用して伝道して来たがその献金は果して「真の献金」神への献金にふさわしい献金であったか、真実の献金をするように、私は指導し、また、かかる献金をするように、私はさして来たかどうかという事であったのである。
献金は神への献金であるから聖い貴い献金であるべきである、聖書にアナニヤ、サッピラの献金の物語がある。神によろこばれ、受け入れられ祝福され、大なる益となるべきものなのにアナニヤ達の献金は呪の献金となったのである、何故であるか、不純で偽りのものであったからである。ここで今まで献金といったその献金はどんなものであるか?
さらに献金は感謝の献げものである。然るに呟き、なやみ、強いてする献金もある。何のためか、いろいろなる理由がある。
また献金は、必ず報いらるるべき、神への奉仕の一つで、伝道者の伝道奉仕の如く、イエスが仰せられた如く、(マタイ十の四十二)
「冷かなる水一杯にても与うるものはその報いを失わざるべし」(改訳)
その精神に一貫せば「決してその報いからもれることはない」(口語訳)とは天国憲法なのである。一杯の水さえかくあらば、まして「神への献金奉仕」なのである。その精神が一貫しおればもるる事のない確実な奉仕なのである、然るに指導不足で一貫せず、まして献金といっても集会、徴収金の如き精神でもってする献金。献金(集金)収入のために、人間的ないろいろ方法手段をもってさした献金であってはそれは神の前に値貴き献金ではないのである。
私は今莫大の献金の計上高を見て、これが神に直通し、神によろこばるる献金であり、し方であったら、どんなに幸なことであったであろうか、少なくとも、これを献げた兄姉がかくの如き心から献げるように指導すべきであったと、教えられたのであった。
何日かすぎての事であった。私は祈った。「神様、私は後日、再び牧会者となり、伝道者となりました場合には、必ず、この光による指導するものになりたいのです、どうか御憐みと恵みと御導きを…」
と誓い、また信仰をもって主を仰いだのであった。
取調べが私に益となった一つはこれである。