メッセージ 2022年4月〜6月


2022626日 弾圧記念礼拝 岡田順一牧師

「疲れた者への慰め」イザヤ書 401231

「主は永遠の神 地の果てまで創造された方。疲れることなく、弱ることなく その英知は究め難い。疲れた者に力を与え 勢いのない者に強さを加えられる。」(イザヤ書40:2829

 

①創造主による慰め。

「私の道は主から隠されており」(27) と、主は自分の苦しみを知らないという民に、イザヤは「誰がこれらを創造したかを見よ。」(26) と、主の全知全能に目を向けさせました。さらに民の「私の訴えは私の神に見過ごされている」(27) と、小さな自分の祈りに主は応えてくれないとの訴えに、イザヤは「誰が手のひらで水を量り 手の幅で天を測り」(12) と、被造物一つ一つを測って創造された主は、人間一人一人も大切に創造され、一人も祈りが応えられないほど小さな存在はないと告げました。

 

②主を待ち望む者への慰め。

「疲れた者に力を与え 勢いのない者に強さを加えられる。」神の力、強さは第一に自分が疲れ、弱り、を自覚する者に与えられます(30)。第二に主を待ち望む者に与えられます(31)。「待ち望む」は「網を張る」意味があり、神を全面的に信頼する者は必ず、神の力、強さを得ることができます。


2022619日 礼拝 岡田順一牧師

「羊飼いの慰め」イザヤ書 40111

「主は羊飼いのようにその群れを飼い その腕に小羊を集めて、懐に抱き 乳を飲ませる羊を導く。」(イザヤ書40:11

 

捕囚に苦しむ民に神は、羊飼いとして慰めてくださいました。

 

①養ってくださる羊飼い。

「群れを養い」(11新共同訳)「草は枯れ、花はしぼむ。しかし、私たちの神の言葉はとこしえに立つ。」(8)捕囚に苦しむ民は希望を失い、その心は枯れ果てていました。その民の心を神はご自身の言葉によって慰め立たせて下さいました。

 

②集めてくださる羊飼い。

「その腕に小羊を集めて」「私たちは皆、羊の群れのようにさまよい」(53:6) 方向音痴の羊のように自分勝手に歩む民を神は集めて、その罪を赦して慰めてくださいます。

 

③抱きしめてくださる羊飼い。

「懐に抱き」「父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き」(ルカ15:20) 父が放蕩息子を抱きしめたように神は愛をもって弱った民を慰めて下さいます。

 

④導いてくださる羊飼い。

「乳を飲ませる羊を導く」多くの民は戦いで家族を失い離散して孤独でした。神は母羊のようになって民の父となり、母となって民の人生を導いて慰めてくださいます。


2022612日 特別礼拝 峯野龍弘牧師(淀橋教会主管牧師)

「キリスト者の成熟と愛」エフェソの信徒への手紙 41216

「ついには、私たちすべてが、信仰と神の子の知識において一つとなり、完全な者となって、キリストの満ち溢れる成熟した年齢に達するのです。」(エフェソの信徒への手紙4:13

 

①成熟したキリスト者となる。

「成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊さになるまで成長するのです。」(13新共同訳パウロはエフェソの人々に成熟したキリスト者となることを勧めました。成熟したキリスト者とは、キリストの愛に生きる人のことです。

 

②アガペーの愛に生きる。

「私は、最も優れた道をあなたがたに示しましょう。」(コリント一12:31) と、パウロは愛に生きることを最も優れた道としました。かつてパウロは律法主義に陥り、正しく生きるだけでなく、動機に愛がなければ空しいことを知りました。復活の主と出会い、キリストの愛に生きる者と変えられました。

 

③アガペーの愛の定義。

「アガペーとは、相手のために、しかも自らに敵対し、かつ不利益を与える相手のためにさえ、あえて自己犠牲を甘受して、その相手の祝福のために自らを献げ、仕えていく何一つみかえりを期待しない心と生活をいう。」


202265日 ペンテコステ礼拝 岡田順一牧師

「聖霊による平和」ヨハネによる福音書 142531

「私は、平和をあなたがたに残し、私の平和を与える。私はこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」(ヨハネによる福音書14:27

 

①キリストの平和。

主イエスは十字架にかかる時を間近にし、弟子たちに告別説教において「私は、平和をあなたがたに残し、私の平和を与える。」(27) と、キリストの平和を弟子たちへの遺産として残すと言われました。世が与える平和は一時的な消え去る平和ですが、キリストの平和は環境や出来事という周囲の状況に左右されずに存在し続けるキリストが与えてくださる内的平和です。

 

②キリストの平和を得るために。

キリストの平和を自分のものとするためには第一にまず、神との平和を得ることです。「私たちは信仰によって義とされたのだから、私たちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ています。」(ローマ5:1) 神との平和を妨げている自分の罪を悔い改め、キリストの十字架を信じる時、神との平和を得ることが出来ます。第二に信じる者の内にいます聖霊に一切をお任せして、心を聖霊に満たしていただくことです。


2022529日 礼拝 岡田順一牧師

「神による慰め」イザヤ書 40111

「『慰めよ、慰めよ、私の民を』と、あなたがたの神は言われる」(イザヤ書40:1

 

①神に慰められる恵み。

39章の終りの部分で神は預言者イザヤを遣わしてヒゼキヤ王に、やがてバビロンに敗れて、民は70年も続くバビロン捕囚の身の上になる預言を告げました。しかし神は、その苦難の後、「慰めよ、慰めよ、私の民を」と、神による慰めを与えてくださると約束されました。「慰め」(ナホーム)には、悲しむ、悔いる、救いという意味があります。それは自分の罪、汚れを認めて悲しむこと。その罪、汚れを神に告白して悔い改めること。そこに神による救いの恵みという慰めが与えられます。

 

②解放される慰め。

捕囚から解放された時「荒れ地に大路をまっすぐに通せ。谷はすべて高くされ、山と丘はみな低くなり…険しい地は平地となれ。」(34)と神は勧めています。荒れ地とは民の心の状態です。谷は劣等感、山と丘は高ぶり。その心が神に対してまっすぐになることを神は願っています。荒れ地である自分の心を神に任せる時、神は「平地になれ」と宣言してくださいます。


2022522日 礼拝 岡田順一牧師

「開かれた心」イザヤ書 3918

「ヒゼキヤは使者たちを歓迎し…倉庫や宝物庫にある一切のものを彼らに見せた。ヒゼキヤが彼らに見せなかったものは、宮殿の中にも、全領土の中にも何一つなかった。」(イザヤ書39:2

 

①祝福の後の失敗。

「バビロンの高官が使者を遣わして、この国に…ついて尋ねさせたときには、神は彼を試み、彼の心にあることをことごとく知るために彼を捨て置かれた。」(歴代誌下32:31) バビロンの使者にヒゼキヤが国の一切のものを見せた時、神が知ろうとされたヒゼキヤの心にあることとは高ぶりの心か遜りの心かでした。この時ヒゼキヤは高ぶりの心に支配されていました。

 

②ヒゼキヤの失敗の原因。

ヒゼキヤは神から大国アッシリアに対する勝利、死に至る病からの癒し、という祝福を受けました。常に神に祈り、神を主語として生きてきた彼でしたが、その心は高ぶり、主語は「私」に変わってしまいました。祝福されていた時、ヒゼキヤは神に隠し事は何一つありませんでした。一切の悩みを神に告げ、祈りによって神に相談しました。その開かれていた心が神に対して閉ざしてしまったことが彼の失敗の原因でした。


2022515日 礼拝 岡田順一牧師

「涙を見る神」イザヤ書 38120

「あなたの父祖ダビデの神、主はこう言われる。私はあなたの祈りを聞き、あなたの涙を見た。それゆえ、私はあなたの寿命を十五年延ばし、」(イザヤ書38:5

 

①病の癒やし、健康を求める理由。

「私がまことを尽くし、誠実な心で御前を歩み、あなたの目に適う良いことを行ってきたことを思い起こしてください。」(3) 死の宣告を受けたヒゼキヤは人生を振り返り、なお生かされて成すべき使命があることを自覚しました。

 

②病の癒やしを祈る信仰。

「私は助けを求めた」(13) 死の恐れに勝る神の助けを信じた。「私を健やかにし どうか私を生かしてくださるように。」(16) 果すべき使命を自覚する信仰。「私のすべての罪を あなたの後ろに投げ捨ててくださった。」(17) 神の恵みへの感謝。「主は私を救ってくださる。」(20) 最終的神の救いを信じた。

 

祈りに応える神の理由。 

神はヒゼキヤの寿命を十五年延ばしました。その理由は「私はあなたの祈りを聞き、あなたの涙を見た。」(5) ヒゼキヤの信仰の祈りと、地上に残される民のためにヒゼキヤが流した涙を神が愛をもって見つめてくださったからでした。 


202258日 母の日礼拝 岡田順一牧師

「信仰による感化」ルツ記 11118

「あなたが行かれる所に私は行き あなたがとどまる所に私はとどまります。あなたの民は私の民 あなたの神は私の神です。」(ルツ記1:16

 

①信仰による感化の力。

夫を失ったルツは義母であるナオミの勧めを断り、ナオミのもとにとどまりました。それはナオミの試練における信仰の感化を受けたからです。ナオミは夫と二人の息子を失いましたが、その試練を「主の手が私に下ったのです」(13) と、神の御手の業と信じました。試練において神の最善の御手を信じる人こそ、子や孫に信仰の感化をもたらすことができます。

 

②神に所属する信仰。

ルツはナオミに「あなたの神は私の神です。」(16) と告白しました。ルツは自分が主なる神に所属していることを告白しました。さらに「死に別れでなく、私があなたと別れるならば 主が幾重にも私を罰してくださいますように。」(17) と言いました。やがてルツはナオミと死に別れる時がやってきます。しかしナオミがいなくなっても主なる神に所属するルツは大丈夫です。信仰の感化は自分から神に所属を変えるに至らせます。


202251日 礼拝 岡田文美佳副牧師

「触れた者は皆、癒やされた」マルコによる福音書 65356

「村でも町でも里でも、イエスが入って行かれると、人々は病人を広場に寝かせ、せめて衣の裾にでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆、癒やされた。」(マルコによる福音書6:56

 

主イエス様のパンの奇跡と癒やしを見聞きした民は、自分たちの住む地域の癒やしを必要とする多くの病人を次々と、イエス様の所に連れてきました。自分で歩くことができない重い病の人は床のまま運んできました。そして、イエス様に癒やしを求めました。イエス様は、その求めに答えられました。ただ一つ助けを必要とする人々に求めたことは、イエス様に向かって手を伸ばすことでした。救いと癒やしの業はすべてイエス様がなさってくださいます。私たちは、イエス様を信頼し、弱い手を伸ばしましょう。

主に触れた者は皆、癒やされる業がそこになされます。

そして、更に恵みの業の拡大のため、人々をイエス様のもとにお連れできる者にさせていただきましょう。


2022424日 礼拝 岡田文美佳副牧師

「安心しなさい。私だ。恐れることはない」マルコによる福音書 64552

「『安心しなさい。私だ。恐れることはない』と言われた。イエスが舟に乗り込まれると、風は静まった。」(マルコによる福音書6:5051

 

 逆風に漕ぎ悩む弟子たちの舟に乗り込み、嵐を静めてくださったイエス様は、私の人生という舟にも伴ってくださいます。

 イエス様はどういうお方でしょう。

☆祈りの援助者です。―「祈るために山へ行かれた」(46)

☆知っておられます。―「漕ぎ悩んでいるのを見て」(48)

☆共におられます。―「舟に乗り込まれた」(51)

☆すべてを統治なさいます。―「風は静まった。」(51)

 この神なる主イエス様が、迷いやすく、弱り果てている私たちの前に立ち、今日も「私だ。」(50)と仰ってくださいます。

 このお方に信頼し、祈り、委ね、お従いしましょう。


2022417日 イースター礼拝 岡田順一牧師

「イエス・キリストの復活」マタイによる福音書 28115

「天使は女たちに言った。『恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。』」(マタイによる福音書28:56

 

①聖なる言葉。

「マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。」(1) 主イエスを慕う婦人たちは、墓の入り口が大きな石に塞がれていることを知りながらも墓に行きました。その時、天使が石を転がし、彼女たちに「恐れることはない。」(5) と言い、復活された主も「恐れることはない。」(10) と言われました。主を慕い従う者には「恐れることはない」との言葉が伴うのです。

 

②聖なる事実。

「あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。」(6) 「復活なさった」との天使の言葉の通りに主は復活され「女たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏し」ました(9)。この復活の事実はイエスこそ神の子であることの証し(ローマ1:4) であり、私たちの救いの保証(ローマ4:24) であり、私たちの永遠の希望です(テサロニケ一4:14)


2022410日 棕櫚の主日礼拝 岡田順一牧師

「十字架のイエス」マタイによる福音書 274556

「三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。『エリ、エリ、レマ、サバクタニ。』これは、『わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか』という意味である。」(マタイによる福音書27:46

 

①人間の罪による暗黒。

「昼の十二時から全地は暗くなり、」(45) これは神の御手による暗黒であり、全地とは全人類の罪という暗黒をキリストが身に負って十字架にかかられたことの意味です。

 

②神に見捨てられた暗黒。

「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」(46) この叫びは本来私たちが死に際して発するはずの叫びでした。キリストが身代わりとなって神に見捨てられたゆえに信じる者は決して神に見捨てられることはありません。

 

暗黒からの解放。

キリストの十字架によって「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、」(51) 神との直接交流の道が開かれた。「墓が開いて、眠りに就いていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。」(52) 死の力への勝利。「百人隊長…は…『まことに、この人は神の子だった』と言った。」(54) 堅い人の心が「岩が裂け、」(51) とあるようにくだかれて救いの道が全人類に開かれました。


202243日 礼拝 岡田順一牧師

「まことの救い主」マタイによる福音書 272744

「そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスを罵って、言った。『…神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。』」(マタイによる福音書27:3940

 

①預言の成就である十字架。

「ぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスは…飲もうとされなかった。」(34) は詩編69:22の成就。「あなたはご存じです 私が受けたそしりを、恥を、辱めを。」(詩編69:20) と、苦難の預言も成就しました。「イエスを十字架につけると、くじを引いてその衣を分け合い、」(35) は詩編22:19の成就。

 

②罵りによって成就された神の救いの計画。

キリストを罵ったのは「そこを通りかかった人々」(39) 無知な罪人、祭司長・律法学者・長老たち(41) 故意の罪人、「強盗たち」(44) 失格の罪人たちでした。すべての人が罪人であることの象徴です。彼らは「神の子なら」とキリストを試しました。キリストは荒れ野で悪魔に「神の子なら」と誘惑されましたが、神の御心である神の言葉によって勝利しました(4:17)。キリストは人々の罵りの中にも父なる神の御心によって十字架による救いを成し遂げられました。