礼拝メッセージの要約を掲載しております。
掲載は約1週間後となります。
2024年4月21日 礼拝 岡田文美佳副牧師
「ペトロの信仰告白」マルコによる福音書 8章27〜30節
「そこでイエスがお尋ねになった。『それでは、あなたがたは私を何者だと言うのか。』ペトロが答えた。『あなたは、メシアです。』」(マルコによる福音書8:29)
①信仰告白は、聖霊による告白であり、神様からのものです。
「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、天におられる私の父である。」(マタイ16:17) ペトロの信仰告白はすべてを理解したものはありませんでした。しかし主は、この告白を受け入れてくださいました。「聖霊によらなければ、誰も『イエスは主である』と言うことはできません。」(コリント一12:3) 私たちの信仰を導いてくださるのは、聖霊様です。
②信仰告白がペトロを守った。
「私はこの岩の上に私の教会を建てよう。(マタイ16:18) 教会は、教会に集まる一人一人の信仰の上に建て上げられています。ペトロの信仰生涯でこの時の信仰告白は、大事な信仰の礎となりました。この時のペトロは、まだまだ未熟な信仰でしたが、この告白は彼の信仰生活を守るものとなりました。
イエス様は今日も「あなたは、私を何者というのか」と問いかけられます。私にとってイエス様はどのようなお方でしょうか。今日も、信仰をもって主との関わりを告白させていただきましょう。
2024年4月14日 礼拝 岡田文美佳副牧師
「主イエスの癒やし」マルコによる福音書 8章22〜26節
「そこで、イエスがもう一度両手をその目に当てられると、見つめているうちに、すっかり治り、何でもはっきり見えるようになった。」(マルコによる福音書8:25)
イエス様はどのように痛む人を癒やされたでしょうか。
①一対一で向き合ってくださるイエス様
イエス様は人々の喧騒から離れるため、必要な静かな場所、静かな時間へと導かれました。「イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出し、」(23) 目の見えないこの人は、イエス様に自分の歩みを委ねました。これが癒やしへの一歩でした。
②痛む人の言葉を引き出してくださるイエス様。
イエス様は私の現状・求めを尋ねられました。私たちは、自分をそのままに主の前に差し出しましょう。
③主は、私に対する癒しの計画をもっておられます。
8章の癒やしは、二段階の癒しの業として書かれています。イエス様の癒やしは一つではありません。私に対する癒しの計画をもっておられます。それは、他の誰かとも違うご計画です。
彼は、主を仰ぎ、見続けました。ここに癒しと回復があります。
2024年4月7日 礼拝 岡田順一牧師
「聖霊による善意」ガラテヤの信徒への手紙 5章22〜23節、ヨハネによる福音書 8章1〜11節
「イエスは身を起こして言われた。『あなたがたの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。』」(ヨハネによる福音書8:7)
①思いやる善意。
「姦淫の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、」(3) この女性は人々の真ん中で辱められました。「イエスはかがみ込み、指で地面に何か書いておられた。」(6) この主の行動は人々の視線を自らに向けさせる思いやる善意でした。
②待つ善意。
「『あなたがたの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。』そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。」(7~8) 主は女性を訴える人々に罪を指摘されましたが、一人一人を断罪するのではなく、自分の罪を自覚するまで主は待ちました。この主の待つ善意が彼らの心を変えました。
③罪を赦す善意。
「イエスは言われた。『私もあなたを罪に定めない。』」(11) 善意とは「他人のためになるようにと思う心」です。「あなたを罪に定めない。」との赦しの言葉こそ他者のためになる言葉です。赦さない、との言葉こそ他者を苦しめる言葉です。
2024年3月31日 イースター礼拝 岡田順一牧師
「キリストの復活の事実」マルコによる福音書 16章1〜18節
「若者は言った。『驚くことはない。十字架につけられたナザレのイエスを捜しているのだろうが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。』」(マルコによる福音書16:6)
①キリストの死の事実。
多くの人は主をこの地上にあって神の国をもたらす存在として期待していました。しかしアリマタヤのヨセフは主の死を確認した上でその遺体を引き取りました。彼は「神の国を待ち望んで」(15:43) いました。その神の国は死からの復活によって信じる者に与えられる永遠の命の希望なのです。
②天使の証言による事実。
クリスマスの日、羊飼いたちに天使は「救い主がお生まれになった」(ルカ2:11) と歴史的事実を告げました。それと同じ確かさをもって婦人たちに天使は「あの方は復活なさって、ここにはおられない」と主の復活の事実を告げました。
③人々の証言による事実。
「イエスは復活して…マグダラのマリアにご自身を現された」(9) 彼女が喜びをもって主を証しするためでした。エマオの途上の二人にご自身を現されました(12)。復活の事実の聖書の裏付けを知らせるためでした(ルカ2:27,32)。
2024年3月24日 棕櫚の主日礼拝 岡田順一牧師
「十字架によるキリストの寛容」ルカによる福音書 23章32〜43節
「その時、イエスは言われた。『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです。』」(ルカによる福音書23:34)
①神による罪の赦しを得る。
「父よ、彼らをお赦しください」とキリストは祈られました。「赦し」の原語の意味は、置き去りにする、捨てる、見逃す です。神の赦しは、罰する権威を持つお方が、その権威を行使しないことです。「私たちはこの御子において、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです」(コロサイ1:14) 神の赦しを得るためには第一に自分が罪人であることを認める。第二にキリストが救い主であると信じる。第三に十字架によるキリストの贖い、身代わりの死を私のためであったと信じること。
②キリスト者の寛容。
「父よ、彼らをお赦しください」とのキリストの祈りは神の寛容を表しています。唯一キリストと同じ祈りの出来たのはステファノでした。殉教に際して「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と祈りました。ステファノは聖霊に満たされていたので神の寛容を実行出来ました(使徒言行録7:55,60)。私たちも聖霊の力によって神の寛容を表すことが出来ます。
2024年3月17日 特別礼拝 塩屋 証牧師(小樽ホーリネス教会牧師)
「わたしもその中にいる」マタイによる福音書 18章15〜20節
「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである」(マタイによる福音書18:20)
①兄弟を得るためにある教会。
イエス様は、兄弟が罪を犯したときの対応について、まず1対1、次に3人~4人、最後は教会から忠告しなさいといいます。それは裁くためでなく「兄弟を得」(15) るためです。十字架の赦しに何度でも立ち返る場所が教会です。
②共に祈るためにある教会。
18-19節では、「天…地が結ば」れている事と「二人が地上で心を合わせるなら…かなえてくださる」と祈りについて教えられます。教会の祈りは必ず聞かれます。私の思いと異なる時にも、祈りに応えて下さる主を待ち望みましょう。
③イエス様ご自身が証しされる教会。
イエス様は、「二人または三人が私の名によって集まるところには、わたしもその中にいる」(20) と約束されました。共に集うものは小さく弱く罪深いものです。しかし、主にあって、赦し合うものとされ、祈り合うものとされ、イエス様が共におられることが証される所が教会です。
2024年3月10日 特別礼拝 岡 聖志師(向島キリスト教会伝道師)
「雪よりも白く」詩編 51篇1〜14節
「ヒソプで私の罪を取り払ってください 私は清くなるでしょう。私を洗ってください 私は雪よりも白くなるでしょう。」(詩編51:9)
①神の憐れみを覚えたダビデ。
ダビデは、「神よ、私を憐れんでください」という言葉で祈りを始めました。それは、どんな時も憐んでくださる神様をダビデが知っていたからでした。私たちがどんなに罪深くても、神様の憐れみは注がれています。それを覚えることが悔い改めの始まりです。
②自分の罪を認めたダビデ。
自分の罪を覆い隠そうとしてさらに罪を重ねたダビデ、自分の罪は棚に上げて他の人の罪に腹を立てたダビデでしたが、「それはあなたです」とのナタンの言葉に、ついに自分の罪を告白します。神様のみ声を聞くとき、私たちは自分の罪を悟り、告白することへと導かれるのです。
③聖い心を求めたダビデ。
ダビデは聖めを求めました。イエス様を信じて一度変えられた私たちにも、なお聖めの恵みが用意されています。イエス様の十字架の血潮によって、また聖霊によって、私たちの心は新しくされます。聖い心を求めましょう。
2024年3月3日 礼拝 岡田順一牧師
「聖霊による親切」ガラテヤの信徒への手紙 5章22〜23節、マルコによる福音書 5章21〜34節
「イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気付いて、群衆の中で振り返り、『私の衣に触れたのは誰か』と言われた。」(マルコによる福音書5:30)
①イエスの不親切に見える思いやり。
十二年も出血の止まらない女性が、イエスの衣に触れて癒されました。その時イエスは「私の衣に触れたのは誰か」と言われました。「女は隠しきれないと知って、」(ルカ8:47) 隠れて生きてきた彼女にとって、このイエスの言葉は不親切のように思えましたが、実は思いやりだったのです。
②イエスの親切。
イエスの思いやる親切の意味は、33節の彼女の行動に表されています。第一に「震えながら進み出てひれ伏し、」彼女は後ろからイエスの衣に触れて癒されましたが、イエスは彼女に正面から向かい、さらに優れる恵みを与えようとされました。第二に「自分の身に起こったことを知って」病が癒された結果だけの知識はそれで終ってしまいますが、誰によって癒されたかを知るなら次に繋がります。第三に「すべてをありのまま話した。」イエスと会話し、祈ることを学び一切を委ねることが出来ました。
2024年2月25日 礼拝 岡田順一牧師
「聖霊による寛容」ガラテヤの信徒への手紙 5章22〜23節、マタイによる福音書 17章14〜20節
「イエスはお答えになった。『なんと不信仰で、ゆがんだ時代なのか。』」(マタイによる福音書17:17)
①寛容の意味。
ギリシャ語「マクロスューミア」は寛容、忍耐と翻訳されています。「キリスト・イエスがまず私に限りない寛容をお示しになり、」(テモテ一1:16)「私たちの主の忍耐強さは救いであると考えなさい。」(ペトロ二3:15) いずれも神の私たちへの寛容、忍耐を表しています。パウロはかつてキリストの迫害者でした。自分への神の寛容と忍耐に感謝して記したことでしょう。
②キリストの忍耐。
第一に弟子たちへの忍耐。「なんと不信仰で、ゆがんだ時代なのか、」(17)「信仰が薄いからだ。」(20) キリストの忍耐は弟子たちの不信仰に向けられました。忍耐することを通して彼らに「からし種一粒ほどの信仰」(20) を持たせるためでした。第二に父親への忍耐。「イエスは言われた。『もしできるなら』と言うのか。信じる者には何でもできる。」(マルコ9:23) キリストの忍耐によって父親は「信じます。信仰のない私をお助けください。」(マルコ9:24) との信仰告白に至らせました。
2024年2月18日 礼拝 岡田文美佳副牧師
「十分気をつけなさい」マルコによる福音書 8章11〜21節
「イエスは、『ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種に十分気をつけなさい』と戒められた。」(マルコによる福音書8:15)
①ファリサイ人の求める天からのしるし
ファリサイ人は、聖書に通じていて、律法を厳格に守ることに熱心でしたが、イエス様が御言葉の権威をもってお語りになる場所には来ませんでした。そして、彼らの思いに適うような奇跡―しるしーを求めました。神様のしるしは、神様のご計画の中でのみ、なされるのです。イエス様は、ファリサイ人の態度と心のかたくなさに心を痛められました。
②十分気をつけなさい
また、イエス様はパン種に注意するように戒められました。御言葉よりも「教え」にとらわれること、世に歩調を合わすことが、イエス様の言われたパン種です。イエス様は弟子たちの在り方についても嘆かれました。弟子たちは、目の前の現実に思い煩い、イエス様の思いを悟るのに鈍い者でした。しかし、彼らは、イエス様の問いかけに答える中で、与えられた恵みを思い起こしました。恵みを数える者となりましょう。
2024年2月11日 礼拝 岡田順一牧師
「聖霊による平和」ガラテヤの信徒への手紙 5章22〜23節、ヨハネによる福音書 14章25〜31節
「私は、平和をあなたがたに残し、私の平和を与える。私はこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな」(ヨハネによる福音書14:27)
①人間の平和を願うキリスト。
「霊の結ぶ実は…平和」(ガラテヤ5:22)「平和」原語では「平安」とも訳せます。平安は内面的、平和は外面的安息を意味しますが、原語のエイレーネーは両方を含みます。主は告別説教の初めに弟子たちに「心を騒がせてはならない」(1) と言われ、最後には「これらのことを話したのは、あなたがたが私によって平和を得るためである」(16:33) と言われました。
②キリストの平和。
「私の平和を与える」(27) 聖霊によって与えられる平和はキリストの経験した平和です。キリストは反対者に捕らえられ、不当の裁判によってむち打たれ、辱めを受け、弟子たちに裏切られ、十字架につけられました。しかし心は父への信頼のゆえに平和でした。その平和を与えてくださいます。それは世が与える物質的、一時的平和ではなく、常に必要を満たし、常に共におられ、永遠の御国が備えられている平和なのです。
2024年2月4日 礼拝 岡田順一牧師
「聖霊による喜び」ガラテヤの信徒への手紙 5章22〜23節、ルカによる福音書 10章21〜24節
「イエスは聖霊によって喜びに溢れて言われた。『天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。…そうです、父よ、これは御心に適うことでした。』」(ルカによる福音書10:21)
①聖霊による喜びと人間の喜びの違い。
人間の喜びは飲食、睡眠のような肉体的喜び。目標を達成した心の満足による喜び。心の喜びは人の失敗を喜び、人のものを自分のものにして喜ぶような罪深い喜びがあります。人間の喜びは自分及び自分の愛する人の喜びに限定されます。それに対して聖霊による喜びは神の喜びを自分の喜びとし、誰でも喜ぶ人と共に喜ぶことです。
②聖霊による喜びの特徴。
第一に天と結ばれた喜び。天地の主は、信じる者を天に引上げられます。信仰者の最大の喜びは「あなたがたの名が天に書き記されていることを喜」(20) ぶことです。第二に神を賛美する喜び。「あなたをほめたたえます。」(21) 聖霊は賛美されるべき神の素晴らしさを示します。私たちは心から神を喜び賛美します。第三に神の御心を喜ぶ。「御心に適うことでした。」(21) 神の御心が成ることが、人生の大いなる喜びとなります。
2024年1月28日 礼拝 岡田順一牧師
「聖霊による愛」ガラテヤの信徒への手紙 5章22〜23節、ヨハネによる福音書 15章11〜17節
「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(ヨハネによる福音書15:13)
聖霊によって注がれる神の愛、アガペーの愛を学びましょう。
①神の愛と人間の愛の違い。
ギリシャ語の愛はエロス、男女の愛、性的愛。ストルゲー、親子愛、家族愛。フィリア、友情、師弟愛があります。これらは人間の愛であり、共通していることは条件付きの愛です。互いに理由があって愛し合う相互交通の愛です。それに対して「霊の結ぶ実は、愛」の神の愛は、アガぺー、それはすべての人間を愛する一方通行の愛、無条件の愛です。
②友とする神の愛。
「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(13) 神はすべての人間を友と呼ばれました。この友とする神の愛をどのように知ることが出来るでしょうか。「私が命じることを行うならば、あなたがたは私の友である。」(14) 神の言葉によって。「父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせた」(15) 祈りによって。「私があなたがたを選んだ。」(16) 選んでくださった神への信仰によって神の愛を知らされます。
2024年1月21日 礼拝 岡田順一牧師
「霊によって歩みなさい」ガラテヤの信徒への手紙 5章16〜26節
「私は言います。霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。」(ガラテヤの信徒への手紙5:16)
①聖霊によって歩む必要。
聖霊によって歩むことは、すべてのキリスト者に対する神の命令です。「そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。」(16) と神は保証しておられます。
②勝利の聖霊。
「肉の望むことは霊に反し、霊の望むことは肉に反するからです。」(17) 聖霊は信じる力を与え、神を仰ぐように導き希望を与えますが、肉はこの世のものに目を向けさせ、失望させようとします。聖霊に全く委ねるなら勝利させてくださいます。
③導きの聖霊。
「霊に導かれているなら、あなたがたは律法の下にはいません。」(18)「霊に従って歩む私たちの内に、律法の要求が満たされる」(ローマ8:4) 聖霊は律法を全うする歩みに導きます。
④実を結ばせる聖霊。
「愛、喜び、平和、」は神との関係の実で、神を愛し、神を喜び、神との平和を実現します。「寛容、親切、善意、」は対人関係による実で、隣人にそれを現す力を与えます。「誠実、柔和、節制」は自分に対する実で、実を結ぶ人生を実現します。
2024年1月14日 礼拝 岡田順一牧師
「肉の性質からのホーリネス」ガラテヤの信徒への手紙 5章16〜24節
「キリスト・イエスに属する者は、肉を情欲と欲望と共に十字架につけたのです。」(ガラテヤの信徒への手紙5:24)
①罪深い肉の性質。
「肉の望むことは霊に反し、」(17) 肉の性質は神に敵対し、罪を犯かす性質です。未信者だけではなく、キリスト者の内側にもあり得る性質です。肉の行いについてパウロは四つに分類しています。第一に性的な罪。「淫行、汚れ、放蕩、」(19) 淫行とは不品行です。第二に偶像礼拝。「偶像礼拝、魔術、」(20) 偶像礼拝は「置き換えの罪」とも言われます。神様よりも優先することは、神を偶像に置き換えることになります。第三に感情の罪。「敵意、争い、嫉妬、怒り、利己心、分裂、分派、妬み、」(20~21) 罪の性質は感情をコントロール出来なくさせます。第四は不摂生の罪。「泥酔、馬鹿騒ぎ、」(21) 聖霊の宮である肉体を汚す罪です。
②肉の性質からのホーリネス。
「キリスト・イエスに属する者は、肉を情欲と欲望と共に十字架につけたのです。」(24) キリストの十字架を信じることは、犯した罪の赦しだけではなく、罪の性質から私たちをきよめてくださいます。罪の性質を神に委ねましょう。
2024年1月7日 新年礼拝 岡田順一牧師
「イエスを見つめながら走る」ヘブライ人への手紙 12章1〜3節
「信仰の導き手であり、完成者であるイエスを見つめながら、走りましょう。」(ヘブライ人への手紙12:2)
2024年の信仰生活を走り抜くために必要なことを学びましょう。
①過去のデーター。
11章に記されている旧約の信仰者の姿に学ぶことです。彼らは「信仰によって」走りました。信仰によって走るとは、神の言葉を信じ神に祈り神を第一にして走ることです。
②身支度。
「すべての重荷や絡みつく罪を捨てて」(1) 不必要なものを捨てて走るべきです。不必要なものとは、神を悲しませる罪、そして神に任せないで自分で握ってしまっている重荷です。
③指導者に従う。
「信仰の導き手であり、完成者であるイエス」イエス様こそ、私たちが従うべき指導者です。「この方は…十字架を忍び」(2) 主イエスの模範に倣って、忍耐強く走りましょう。
④ゴールを目指して。
「イエスを見つめながら、走りましょう。この方は…神の王座の右にお座りになったのです。」(2) 私たちの信仰生活の最終的ゴールは天の御国です。この地上にあっては、イエスを目指して、イエスが喜ばれることを常に選び取ることです。