メッセージ 2021年1月〜3月


2021328日 棕櫚の主日礼拝 岡田順一牧師

「回復のための十字架」ルカによる福音書 234456

「太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。イエスは大声で叫ばれた。『父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。』こう言って息を引き取られた。」 (ルカによる福音書23:4546)

 

①暗黒への勝利の十字架。

全地が暗くなった十二時までに主は十字架上に三つの言葉を言われました。「父よ、彼らをお赦しください。」(34)「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(43)「あなたの子です…あなたの母です。」(ヨハネ19:2627) 赦しの勝利、永遠の命による勝利、神の家族となる勝利を十字架はもたらします。

 

②回復のための十字架。

十二時に神殿の垂れ幕が裂け、神と人との自由な交わりが回復しました。その後に主は十字架上に四つの言葉を言われました。「わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46) 「渇く」(ヨハネ19:28) 「成し遂げられた」(ヨハネ19:30) 「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」(46) 神に見捨てられても仕方のない罪人の回復、心が渇ききった者の回復、満ち足りた人生への回復、全生涯が神の愛の御手に治められていたことを感謝することの回復を、十字架は信じる者にもたらします。


2021321日 礼拝 岡田順一牧師

「罪人の救いのための十字架」ルカによる福音書 233243

「人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。そのとき、イエスは言われた。『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。』」 (ルカによる福音書23:3334)

 

①無感覚の罪人をも愛する愛。

「兵士たちもイエスに近寄り、…侮辱して、」(36)  主イエスを十字架につけた兵士たちは十字架刑に何度も立ち会い人間の死に対して感覚が麻痺していました。マンネリは罪の意識を消してしまいます。私たちも神を忘れたかのような生活をしていないでしょうか。そのような者のためにも「彼らをお赦しください。」と祈られた主の愛を忘れてはなりません。

 

②真の姿をさらけ出す愛。

主イエスと共に二人の犯罪人が十字架につけられました。彼らは二人とも極刑に処せられ、死んでしまえば二人の違いは全くないかのように忘れ去られたことでしょう。しかし主イエスとの出会いは彼らを全く違う者としました。一方は永遠の滅びに至り、他方は主イエスを信じて永遠の命が与えられました。主の御前に私たちは救われたことを感謝しましょう。


2021314日 礼拝 岡田文美佳副牧師

「そばに置くため」マルコによる福音書 31319

「そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、宣教に遣わし、」(マルコによる福音書3:14

 

主イエス様は宣教の働きのために十二人を使徒として招かれました。

この十二人は主に救われ、招かれた私たちの姿です。

 

①祈りによって

「イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、」(13) イエス様は、夜を徹して祈り、十二人をお選びになられました。私たちも、すべての歩みを主に聴き、御心を求めて進みましょう。

 

②イエス様の任命。-使徒と造り上げるため。

イエス様は召し出された十二人を使徒に「任命」されました。任命するという言葉には「造り上げる」という意味があります。彼らは、能力や地位のゆえに主に招かれたのではありません。「無きに等しい者を、あえて選ばれたので」す(コリント一1:28口語訳)

 

使徒としての目的。-そばに置くため。

使徒としての使命は、宣教のためです。しかし、宣教に遣わすにあたって、イエス様は十二人をそばに置かれました。罪赦され、心と体の癒やし、回復、そして主に在る者としての再生がなされてゆきました。私たちも主のそばで造られましょう。主のこころにかなう者として。


202137日 礼拝 岡田順一牧師

「十字架を負う者」ルカによる福音書 232631

「人々はイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた。」(ルカによる福音書23:26

 

①強いられた十字架。

「シモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、」主イエスがゴルゴタの丘に十字架を背負って運ぶ途中、シモンという人が兵士に強いられて十字架を負いました。私たちも人生において、なぜ自分がしなければならないのか、と思うような状況に神が導かれることがあります。それは負うべき十字架です。それを負い切る時強いられた恵みがもたらされます。

 

②祝福に至らせる十字架。

「アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、…通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた。」(マルコ15:21)「主に結ばれている選ばれた者ルフォス、およびその母によろしく。彼女はわたしにとっても母なのです。」(ローマ16:13)  シモンは十字架を負ったため十字架を目撃し、その証しによって妻と子を救いに導きました。その十字架証言はパウロにまでも霊的感化を及ぼす祝福となりました。


2021228日 礼拝 岡田順一牧師

「極悪人と救い主」ルカによる福音書 231325

「暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバを要求どおりに釈放し、イエスの方は彼らに引き渡して、好きなようにさせた。」(ルカによる福音書23:25

 

①人に裁かれた神の子。

主イエスは三種類の人々に裁かれました。第一に最高法院の議員たち(22:66)。彼らは神殿から利益を得て神よりも金を優先する人々でした。第二にヘロデ王。彼はヨハネを処刑した良心の呵責による苦しみを、主を利用して逃れようとしました(8)。第三に総督ピラト。彼は3回も主の無罪を主張しました(4,14,22)が自分の良心よりも人の評価を優先して主を十字架につけました(2324)。この人々と同じ心が我が内にないでしょうか。

 

②極悪人の救い。

「尋問したが、イエスは何もお答えにならなかった。」(9) 主は裁く人々に沈黙されました。それは彼らが自らの罪を軽く考えていたからです。神の御前にはすべての人が極悪人です。まさに極悪人であったバラバが主のかわりに釈放されたように自らの罪を認め、主の十字架を信じるなら主は沈黙ではなく赦しの宣言を告げられます。それを聞く一人一人でありましょう。


2021221日 礼拝 岡田順一牧師

「自分の真相を見たイザヤ」イザヤ書 617

「見よ、これがあなたの唇に触れたので 過ちは取り去られ、罪は覆われた。」(イザヤ書6:7

 

①自分を見たイザヤ。

聖なる神(3)を見たイザヤは、その神に対して自分はどうなのかと自分を見ました。その時の自己認識は「ああ、災いだ。私は汚れた唇の者」(5)と言わざるを得ませんでした。私たちは、自分の真相を神の御前には隠すことはできません。「災いだ」という言葉をイザヤは5章で6回言いましたが、いずれも民への裁きの言葉でした。神の御前に出た時、彼は自分こそ最も災いだと示されました。「ああ」とは、自己破産を意味する叫びです。彼は神の御前に全面降伏するしかありませんでした。

 

②神に取り扱われたイザヤ。

神の御前に全面降伏したイザヤに対して、神は祭壇の炭火を持ったセラフィムを遣わし、その炭火をイザヤの唇に触れさせ、こう言わせました。「見よ、これがあなたの唇に触れたので 過ちは取り去られ、罪は覆われた。」と(67)。今日の私たちにとって祭壇は十字架であり、炭火は聖霊の火です。主の十字架によって罪は赦され、聖霊はきよめてくださいます。


2021214日 礼拝 岡田順一牧師

「神を見たイザヤ」イザヤ書 615

「ウジヤ王が死んだ年、私は、高く上げられた玉座に主が座っておられるのを見た。」(イザヤ書6:1

 

①神を見るとは。

「いまだかつて、神を見た者はいない。父の懐にいる独り子である神、この方が神を示された」(ヨハネ1:18) キリストを通して神を見る。「神の見えない性質…は…被造物を通してはっきりと認められる」(ローマ1:20) 神の作品を通して神を見る。祈りと御言葉を通して神を感じることが出来ます。イザヤは「ウジヤ王が死んだ年」に神を見ました。ウジヤ王は52年間も王位にありましたが、晩年は驕り高ぶり主に打たれて死にました(歴代誌下26)国民が動揺する中イザヤは必死の祈りの中に神を見ました。私たちもコロナ禍にあって神を見るほどに祈る者でありましょう。

 

②イザヤの見た神に対して。

神はご自身と共に神に仕えるセラフィムをイザヤに見せました(2)。その姿は「二つの翼で顔を覆い」へりくだった姿です。「二つの翼で足を覆い」自制する姿です。「二つの翼で飛んでいた」神に服従する姿です。イザヤは国の緊急事態に神の必要としている存在の姿を見て、それに従いました。


202127日 礼拝 岡田順一牧師

「ぶどう畑の愛の歌」イザヤ書 517

「私は歌おう、私の愛する者のために、ぶどう畑の愛の歌を。愛する者は肥沃な丘にぶどう畑を持っていた。」(イザヤ書5:1

 

①ぶどう畑である私たち。

「万軍の主のぶどう畑とは、イスラエルの家のこと。」(7) 神を信じる人は神のぶどう畑です。「彼は畑を掘り起こし、石を取り除き 良いぶどうを植えた」(2) 神は私たちの心を探り、罪を取り除き、豊かな恵みを与えてくださいます。その恵みのゆえに感謝にあふれ「ぶどう畑の愛の歌」が絶えません。

 

②期待はずれのぶどう畑。

「彼は良いぶどうが実るのを待ち望んだ。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった」(2) 神は良いぶどうが実るために必要な物を与えました(4)。しかし、良い実を実らせることができなかったのは、私たちの側に問題があります。

 

期待に応えるぶどう畑となる。

「正義を待ち望んだ」(7) 正義とは神との真っ直ぐな関係です。神は若枝としてキリストをこの世に遣わされました(11:1)「私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」(ヨハネ15:5) キリストがぶどう畑である私たちに内に住まわれることを通して私達も豊かな結実に至ります。


2021131日 礼拝 岡田順一牧師

「聖なる者と呼ばれる人」イザヤ書 416

「シオンに残った者とイスラエルに残された者は、聖なる者と呼ばれる。その者たちはすべてエルサレムにおいて命の書に書き記されているのである。」(イザヤ書4:3

 

①主の若枝による救い。

「その日には、主の若枝は麗しく、光り輝く。」(2)「エッサイの株から一つの芽が萌え出で その根から若枝が育ち」(11:1) エッサイとはダビデの父であり、その子孫からキリストが誕生されました。主の若枝とはキリストご自身です。

 

②救われるべき人。

「イスラエルの生き残った者にとって誇りと栄誉となる」(2) 多くの民が罪を犯して神に取り去られる裁きを受けました(3:1~3)。その中で、信仰によって生き残った者にこそ神の救いはもたらされました。信仰によって残る者となりましょう。

 

生き残った者への神の恵み。

「残された者は、聖なる者と呼ばれる。」(3) 聖霊によって清められます(4)。「命の書に書き記されている」(3) 永遠の命が与えられます。「昼は雲を、夜は煙と燃える火の輝きを造る。…それは昼の暑さの陰となり、嵐と雨からの逃れ場、また隠れ家となる。」(56) 神が守ってくださいます。


2021124日 礼拝 岡田順一牧師

「神の栄光のまなざし」イザヤ書 3126

「エルサレムはつまずき、ユダは倒れてしまった。彼らの舌と行いが主に敵対し その栄光のまなざしに逆らったからである。」(イザヤ書3:8

 

①取り去る神の裁き。

「人はパンだけで生きるものではなく 神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」(マタイ4:4)人は肉体のためのパンと霊のための神の言葉を必要としています。神の言葉に背いて罪を犯した民に「主なる神は、…頼みとするパンと頼みとする水をすべて取り去る。」(1)との神の裁きが告げられました。

 

②神の民に向けられる神の栄光のまなざし。

罪を犯した民をも神は私の民(12)と呼ばれました。私の民に対して神は「栄光のまなざし」(8)を向けられました。それはどんな罪人も神の栄光を現す存在になることができるとの神の愛による希望のまなざしです。生まれつき目の見えない人を見かけられて、その人の不幸と思える境遇を「神の業がこの人に現れるためである。」と言われた主イエスのまなざしです(ヨハネ9:13)。私たちにもこの神の栄光のまなざしが向けられていることを覚えて希望をもって歩みましょう。


2021117日 礼拝 岡田順一牧師

「主のみが高くされる日」イザヤ書 2122

「人間の高ぶる目は低くされ 人の高慢は卑しめられる。その日には、主のみが高くされる。」(イザヤ書2:11

 

①裁きとしての主の日。

終わりの日に聖なる神は罪人を必ず裁かれます。民は占い師に頼り、偶像礼拝の罪を犯しました(68)彼らの心は高慢に満ちていました(1112)このような人間の罪の原因は鼻で息をするだけの人間に頼る自己中心のゆえでした(22)

 

②救いとしての主の日。

「その日には、主のみが高くされる」信仰を全うした人は終わりの日に再臨の主を見上げることでしょう。そのような日を迎えるためには「その日」を今日として今日から主のみを高くする生き方をすべきです。それは第一に主を計算に入れた生き方です。「人に何の値打ちがあるのか」値打ちとは計算に入れるという意味です。神は人間が生きるために必要な息を与えました(創世記2:7)神を計算に入れて生きる時、神は私たちに生きるために必要なものを与え続けられます。第二に神の言葉によって生きることです。「主の言葉はエルサレムから出る」(3) 主の言葉によって生きる時、主の光の中を歩むことができます(5)。 


2021110日 礼拝 岡田順一牧師

「雪のように白くしてくださる神」イザヤ書 1120

「あなたがたの罪がたとえ緋のようでも、雪のように白くなる。たとえ紅のように赤くても 羊毛のように白くなる。」(イザヤ書1:18

 

①人間の罪の醜さ。

「私は子どもたちを育て上げ、大きくした。しかし、彼らは私に背いた。…彼らは主を捨て…侮り、背を向けた。」(24) 主とイスラエルの民との関係は父と子の愛の関係でしたが、民は主に背き主を捨てました。家畜でさえ飼い主への恩を忘れないのに彼らは主の愛を忘れ、その罪は動物以下でした(3)

 

②人間の罪を雪のように白くする神の恵み。

「私の民は理解していない」(3) 神の愛を理解できない民をも主は「私の民」と呼んでくださいます。その民への愛のゆえに主は彼らに罪の赦しと清めの恵みを告げられました。緋のような罪とは血を流すほどの罪の深刻さを表しています。雪のように白くなるとは神の愛に包まれる赦しです。紅のように赤い罪とは罪の染みが塗り固められて人間にはどうにもできない罪です。羊毛のように白くなるとは本質から人間の罪の性質を清めてくださる神の恵みです。それを自分のものにするためには主に「進んで聞き従う」(19)ことです。


202113日 新年礼拝 岡田順一牧師

「神を待ち望む者の力」イザヤ書 402731

「主を待ち望む者は新たな力を得 鷲のように翼を広げて舞い上がる。走っても弱ることがなく 歩いても疲れることはない。」(イザヤ書40:31

 

①私の道を知っている神。

「私の道は主から隠されており」(27) 私の道とは私の人生、今年の私の歩みを指しています。私の道は私には分からなくても主は私の道を知っています。主がそれを隠しておられるのは、私たちを知っておられる主に祈るためです。

 

②自分の弱さと神の強さを知る。

「若者も疲れ、弱り、若い男もつまずき倒れる。」(30) 人は疲れ、弱る者であり、弱ることを知らないような人もつまずかない人はいません。「主は永遠の神…疲れることなく、弱ることなく」(28) この主が「疲れた者に力を与え 勢いのない者に強さを加えられる。」(29) のです。

 

神の力を得るために。

「主を待ち望む者は新たな力を得」神の力をいただく条件は「主を待ち望む」ことです。待つとは「網を張る」という意味です。漁師は必ず収穫できる所に網を張ります。私たちが信仰の網を張るなら必ず神の力を得ることができます。