2023年3月26日 礼拝 岡田順一牧師
「私たちの救い主」イザヤ書 53章1〜7節
「彼は私たちの背きのために刺し貫かれ 私たちの過ちのために打ち砕かれた。彼が受けた懲らしめによって 私たちに平安が与えられ 彼が受けた打ち傷によって私たちは癒やされた。」(イザヤ書53:5)
イザヤはキリストの約七百年も前の預言者でしたが、十字架のキリストを預言しています。私たちはいかに応答すべきでしょうか。
①自分の罪を認める。
「私たちの病…私たちの痛み…私たちの背き…私たちすべての過ち」(4~6) キリストが十字架上に負ってくださったのは、私たちの罪であったことを認めるべきです。
②十字架のキリストを信じる。
「彼が担った…彼が負った…彼は…刺し貫かれ…打ち砕かれた。彼が受けた懲らしめ…彼が受けた打ち傷」(4~5) 十字架上のキリストの贖いを信じるべきです。
③神による救いを信じる。
「彼が受けた懲らしめによって 私たちに平安が与えられ 彼が受けた打ち傷によって私たちは癒やされた。」(5) 十字架上のキリストの贖いを信じることによって「私たちは癒やされた。」と信仰によって神の救いを受け取るべきなのです。
2023年3月19日 礼拝 岡田順一牧師
「とこしえの光である神」イザヤ書 60章1〜5,19〜22節
「あなたにとって、主がとこしえの光となり あなたの神があなたの誉れとなる。」(イザヤ書60:19)
①暗闇の現実を知る。
イザヤの時代「見よ、闇が地を覆」(2) うような「嘆きの日々」(20) がありました。イエス様の時代の人々は「闇の中に住む民…死の地、死の陰に住む人々」(マタイ4:16) と言われました。イエス様は捕らえられた時「闇が支配しているのである。」(ルカ22:53) と言われました。イザヤの時代、イエス様の時代だけではなく、今の時代も、私たちの人生においても、闇が支配しているかのような現実があることを認めなければなりません。
②光をもたらす救い主。
「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている。」(ヨハネ16:33) イエス様は闇の支配、世の苦難を認めつつも十字架による勝利を告げました。「闇が地を覆い…しかし、あなたの上には主が輝き出で主の栄光があなたの上に現れる。」(2)「主があなたにとって、とこしえの光となり あなたの嘆きの日々は終わる。」(20) どんな闇の現実があっても、あなたの上に救い主は光をもたらされます。
2023年3月12日 礼拝 岡田順一牧師
「あがない主が来る」イザヤ書 59章13〜21節
「贖い主がシオンに来る。ヤコブのうちで 背きの罪から立ち帰る者のもとに来る-主の仰せ。」(イザヤ書59:20)
①私たちの救いを願う神。
「主に背いて欺き 私たちの神に背を向け 虐げと反逆を語り 心に偽りの言葉を抱き、それを口に出す。…主はこれを御覧になり 公正がないことを不快に思われた。主は…執り成す人がいないことに驚かれた。そこで、主はその腕で自らに勝利をもたらし その正義でご自身を支えた。」(13,15~16) 神は民が背いたことを御覧になり、ご自分から救いの御手を伸ばし、罪人たちを救うために真の執り成し手を備えられました。
②神の救いの手段。
「主は仕業に応じて報い 敵対する者には憤りを 敵には報復を 島々にも報復を返される。」(18) 神は聖なるお方ですから、罪を見逃したり、大目に見ることはなく、罪に対して憤り、裁きの報いを与えます。「贖い主がシオンに来る。ヤコブのうちで 背きの罪から立ち帰る者のもとに来る」(20) そこで神は贖い主である神の御子イエス・キリストを遣わして、民の罪の代価として、十字架上に神の御子の命が献げられたのです。
2023年3月5日 岡田順一牧師
「神の手、神の耳」イザヤ書 59章1〜4節
「見よ、主の手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて聞こえないのでもない。ただ、あなたがたの過ちが神とあなたがたとを隔て あなたがたの罪が御顔を隠し 聞こえないようにしている。」(イザヤ書59:1~2)
①神の御手の力。
「主の手」(1) は奇跡を起す御手であり(申命記11:1~4)、創造主の御手であり(ヨブ12:7~9)、命を握る御手であり(ヨブ12:10)、人生を握る御手であり(詩編31:16)、一切をゆだねることのできる御手です(ペトロ一5:6~7)。主の手はすべての人を救う御手です。
②神の慈しみ深い耳。
「私は、エジプトにおける私の民の苦しみをつぶさに見、追い使う者の前で叫ぶ声を聞いて、その痛みを確かに知った。」(出エジプト3:7) 民の叫びの祈りが慈しみ深い神の耳に届き、神の御手が動かされました。神の御手と神の耳は一体です。
③神を妨げる私たちの罪。
2節の点検すべき私たちの過ちとは「あなたがたの手」自分の手に神よりも大切な物が握られていないか「指」神に喜ばれないことをしていないか「唇」神に喜ばれない発言をしていないか「舌」心の中に罪深い思いがないか。
2023年2月26日 岡田順一牧師
「ここにおられる神」イザヤ書 58章6~14節
「その時、あなたが呼べば主は応え あなたが助けを求めて叫べば 『私はここにいる』と言われる。」(イザヤ書58:9)
①神が選ばれる断食。
「なぜ、私たちが断食しても あなたは見てくださらず」(3) 民は断食という行いによって祈りが応えられると考えました。「あなたの断食を人に見られることなく、隠れた所におられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」(マタイ6:18) 神が選ばれる断食とは神のみに向かうための断食なのです。
②神のみに向かう幸い。
神のみに向かう時、そこに私たちが発見するのは、神の御心と見えない神が共におられる事実を知らされます。「私が選ぶ断食とは…虐げられた人を自由の身にし…飢えた人にパンを分け与え 家がなく苦しむ人々を家に招くこと 裸の人を見れば服を着せ」(6~7) 神のみに向かう時、知らされる神の御心は神の愛です。隣人愛に導かれます。「あなたが助けを求めて叫べば 『私はここにいる』と言われる。」(9) 神のみに向かう時「私はここにいる」と神が共におられことを知ることができます。
2023年2月19日 岡田順一牧師
「聖なる生かす神」イザヤ書 57章14〜21節
「高みにおられ、崇められ 永遠におられる、その名が聖である方が こう言われる。私は高く、聖なる所に住み 打ち砕かれた人、低められた人と共にいて 低められた人の霊を生き返らせ
打ち砕かれた人の心を生き返らせる。」(イザヤ書57:15)
①神の限りない高さ。
「私は高く、聖なる所に住み」聖とは「かけ離れている」ことです。人間が「塔の頂は天に届くように」(創世記11:4)と、高い塔を作ろうとした時、神は人間を散らされました。人間は自分の力で神の領域に達することはできません。
②低きにくだる神。
「道を整えよ。」(14) 神と人を繋ぐ道です。かけ離れた所におられる神は「おとめが身ごもって男の子を産み」(7:14) この世に、神の独り子であるイエス・キリストを遣わされました。高みにおられる神が、低きこの世にくだられたのでした。
③低きを求める神。
「打ち砕かれた人、低められた人と共にいて」(15) 神はイザヤを取り扱われ、その自我を砕き、へりくだる低き人にしました。その目的は、低きにくだられた神と同じ体験をした人と共におられるためでした。信じる者の内に共におられます。
2023年2月12日 礼拝 岡田文美佳副牧師
「あきらめなかったお母さん」マルコによる福音書 7章24〜30節
「女が答えて言った。『主よ、食卓の下の小犬でも、子どものパン屑はいただきます。』」(マルコによる福音書7:28)
主イエス様の所に一人の母親が幼い娘(汚れた霊に苦しめられている) の癒やしを求めてやってきました。最初、イエス様はその母親の願いを聞き入れてくださいませんでした。しかし、お母さんは、あきらめないでイエス様に求め続けました。どうしてあきらめないで求め続けることができたのでしょう。
①娘への愛ゆえに。
母親は愛する娘の癒やしを、救いをあきらめることはできません。イエス様の厳しいお言葉も、突っぱねられることも受け入れることができました。
②主イエス様への絶対的な信頼があった。(イエス様は必ず助けてくださることを信じました)
二つの信頼がありました。
・イエス様は癒やす力をもっておられることを信頼しました。
・私の求めに応えてくださるということを信頼しました。
「その言葉で十分である。」(29) この母親の求めはきかれました。主の前にへりくだり、祈る者とさせていただきましょう。
2023年2月5日 礼拝 岡田順一牧師
「祈りの家である教会」イザヤ書 56章1〜8節
「私は彼らを私の聖なる山に導き 私の祈りの家で喜ばせよう。…私の家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。」(イザヤ書56:7)
①すべての人のための教会。
「私の救いが到来し、…なんと幸いなことか、このように行う人…安息日を守り」(1~2) 幸いな人とは救われた人であり、安息日を守ってその救いを全うする人です。「宦官が私の安息日を守り、…異国の子ら 安息日を守り、」(4,6) 子孫を残せない宦官も異邦人も、誰でも幸いな人になり得るのです。
②祈りの家である教会。
「イエスは…言われた。『こう書いてある。「私の家は、祈りの家と呼ばれる。」ところが、あなたがたは それを強盗の巣にしている。』」(マタイ21:12~13) 教会は神を礼拝し、神に祈る場所です。教会は人間ではなく神を中心に置きます。
③神の愛に満ちた教会。
「主に仕え、主の名を愛し、その僕となった 主に連なる異国の子ら 安息日を守り、」(6) 宦官や異邦人が教会に受け入れられたのは、主に仕える心、主を愛する心、僕の心のゆえでした。教会は常に神の愛に満ちた場所なのです。
2023年1月29日 礼拝 岡田順一牧師
「神を尋ね求める」イザヤ書 55章6〜13節
「主を尋ね求めよ、見いだすことができるうちに。主に呼びかけよ、近くにおられるうちに。」(イザヤ書55:6)
①愛なる神への求め。
「主を尋ね求めよ…主に呼びかけよ」私たちが尋ね求め、呼びかけるべき主とは「主は憐れんでくださる。…主は寛大に赦してくださる。」(7) 憐れみ深く、寛大なお方です。「誰でも、求める者は受け、探す者は見つけ、叩く者には開かれる。…天におられるあなたがたの父は、求める者に良い物をくださる。」(マタイ7:8,11) 私たちの主は、天におられる父です。父なる神が私たちに良い物をくださる根拠は「御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものを私たちに賜らないことがあるでしょうか」(ローマ8:32) 十字架の神の愛がその根拠なのです。
②最も良い時に求める。
「主を尋ね求めよ、見いだすことができるうちに。主に呼びかけよ、近くにおられるうちに。」(6) 「うちに」とは、神のタイミング、神のチャンスです。「今こそ、恵みの時、今こそ、救いの日です。」(コリント二6:2) 神を見いだし、神が近くにいる時とは恵みの時、救いの日です。今こそ、最も良い時なのです。
2023年1月22日 礼拝 岡田順一牧師
「恵みへの招き」イザヤ書 55章1〜5節
「さあ、渇いている者は皆、水のもとに来るがよい。金のない者も来るがよい。買って、食べよ。来て、金を払わず、代価も払わずに ぶどう酒と乳を買え。」(イザヤ書55:1)
①恵みに招かれている人。
「さあ、渇いている者は皆、水のもとに来るがよい。」(1)「渇いている人は誰でも、私のもとに来て飲みなさい。」(ヨハネ7:37) 父なる神も、主イエスも渇いていることを認める人を招いています。「金のない者も」とは、自分には、自分の渇きを満たす術が無いことを認める人も招かれていることです。
②招きの目的。
「水のもとに来るがよい。」(1) 水とは渇きを癒すものです。つまり神様は私たちの全人格的癒しを与えることを目的として私たちを招いておられます。「私のもとに来て飲みなさい。」(ヨハネ7:37) 主イエスのところにこそまったき癒しがあります。
③恵みを手にする人。
「来て、金を払わず、代価も払わずに ぶどう酒と乳を買え。」(1) 金を払わず、代価も払わないとは、一方的な神の愛によって癒しが与えられることを意味します。私たちがすべきことは、神を信じて神のもとに来て、求めることのみです。
2023年1月15日 礼拝 岡田順一牧師
「今年も注がれる神の慈しみ」イザヤ書 54章9〜17節
「山々が移り、丘が揺らごうとも 私の慈しみはあなたから移らず 私の平和の契約は揺らぐことはない --あなたを憐れむ主は言われる。」(イザヤ書54:10)
①不変の神の慈しみと神の平和。
「山々が移り、丘が揺らごうとも」自然災害、戦争、疫病、試練、思いがけないことの起こる不確かな世の中です。「私の慈しみはあなたから移らず」神の慈しみは私たちの側にどのような変化があっても不変です。「私の平和の契約は揺らぐことはない」神の平和は、私たちの心に安息を、人生に安らぎを与え、最終的には御国に至らせる永遠の平和です。
②神の慈しみの根拠である神の契約。
「私の平和の契約」(10) この契約とは「ノアの洪水を二度と地上に起さない」(9) とのノアとの誓いのことです。「私はあなたがたと契約を立てる。すべての肉なるものが大洪水によって滅ぼされることはもはやない。」(創世記9:11) この契約を立てて以来、神の心にあることは、人間の滅びではなく、すべての人間の救いのことのみです。神はすべての人を愛し、すべての人が神を信じ、救われることを願っておられます。
2023年1月8日 礼拝 岡田順一牧師
「恵みによる宣教の祝福」イザヤ書 54章1〜8節
「あなたの天幕の場所を広くし 住まいの幕を惜しまず広げ 綱を長くし、杭を揺るぎないものとせよ。」(イザヤ書54:2)
①神の恵みを喜ぶ。
「喜び歌え…歓声を上げて叫べ、」(1) 私たちが喜び祝い、歓声を上げる理由は、救い主によってもたらされた救いの事実のゆえです。神はなぜ、私たちを救ってくださるのでしょうか。第一に神が贖い主だからです。「あなたの贖い主は…全地の神と呼ばれている。…あなたの贖い主」(5,8) 第二に神の愛のゆえです。「深い憐れみをもって、あなたを連れ戻す。…とこしえの慈しみをもってあなたを憐れむ」(7~8) 神の恵みを喜びましょう。
②神の恵みを宣べ伝える。
「あなたの天幕の場所を広くし 住まいの幕を惜しまず広げ」神の恵みによって救われた私たちは、この恵みを広める、宣べ伝えるべきです。宣べ伝えるために私たちがすべきことは第一に天幕の場所を大切にすることです。天幕とは礼拝の場です。礼拝を厳守し、礼拝において受けた恵みを宣べ伝えることができます。第二に信仰の領域を広めることです。家族、友人、同僚が救われると信じて祈り続けることができます。
2023年1月1日 新年礼拝 岡田順一牧師
「人の心を生かす神」イザヤ書 6章1〜8節、57章15節
「私は高く、聖なる所に住み 打ち砕かれた人、低められた人と共にいて 低められた人の霊を生き返らせ 打ち砕かれた人の心を生き返らせる。」(イザヤ書57:15)
①低められた人、打ち砕かれた人とは。
低められた人とは、神によって低くされた人。打ち砕かれた人とは、神によって粉々にされた人です。これはイザヤ自身の6章における経験です。「ああ、災いだ。私は汚れた唇の者…私の目は 王である万軍の主を見てしまった」(6:5) この時イザヤは、聖なる神の御前に自分がいかに汚れた存在であるかを自覚し「災いだ。」と告白しました。彼はこの時、神によって低くされ、神の御前に粉々に砕かれたのです。
②生き返ったイザヤ。
「祭壇の上から火箸で取った炭火があった。…言った。『見よ、これがあなたの唇に触れたので 過ちは取り去られ、罪は覆われた。』」(6~7) 祭壇は十字架を表し、炭火は聖霊を表しています。十字架を信じる時、聖霊は罪を赦し、汚れを清めます。さらにイザヤは「ここに私がおります。私を遣わしてください。」(8) と告白し隣人のために生きる生き方が変えられました。