札幌新生教会第6代牧師
伊藤 馨 著『恩寵あふるる記』第一巻より
昭和十七年六月二十九日朝食後、呼び出された。
「伊藤、出て来い。」
何事かと出ると、取調べが始まるのであった。調べ役は、道庁特高の一課長であった。
「さあ、どんな悪いことをしてきたか、言ってみなさい。」
静かで穏やかであるが、威厳をもった声であった。私は悪いことをしておらぬので返事のしようなく、
「どんな事件でしょうか。」
「どんなことって、悪事をせぬ者を検挙するか。正直に申し上げるんだな。」
「私は牧師ですから、神の前に正直に何事でも申し上げますが、実は別に悪いことは…」
「これまで何をしてきたか、それを言いなさい。」
「それですか、申し上げます。」
私は私の今日までの生活経路を語り出し、入信から献身、伝道界に投じた理由など筋道立ててできるだけ簡潔に申し述べたのである。
心中、これはよき機会である、証詞をしようと、北海道に転任してきて伝道を開始するところまで語ったところ、どこかで大声に怒鳴る者がある。驚いた。豆鉄砲をくった鳩という言葉があるが、私もまさしくそうであったろう。恐らくは呆然としていたにちがいない。
「オイ、起て。」
私は腰掛けから立ち上がった。すると課長は、
「人を馬鹿にするのもほどがある。私は若いと思ってナメているな、この野郎。」
ときたのである。
「牧師様と思って紳士待遇してやればいい気になって、なんだその言い分は。」
私はその一課長のお顔をしみじみと、見た。四十二、三であろうか、一見して立派な紳士である。
「いま申し述べたことならば、だれも検挙はせぬ。四十年も伝道したとあれば、本来はお上から賞奨が出るところだ。それがこうして検挙されている。悪いことがなくてなんで検挙するか。」
私自身もそう思うのである。しかも何が悪いのか、はなはだ理解できぬことである。こんな不合理なことってあるものか…と思っていたのである。
「座れ。」
道場の畳の上に座らせられた。
「さあ、正直に申し上げろ。」
私はほとほと困った。困ったと言って、これほど困惑したことはかつてないほどである。答えるにも答えようはないのである。黙然としていた。
「ウン、思い当たることがあるだろう。」
「これと思い当たることはありません。それで御訊問下されば、知っていることなら、なんなりとお答え申し上げますが。」
一課長はガリ版の書類を開き、それは後に知ったことであるが、中央からの司令書で、取調べの参考ともなるべきものを印刷したものであった。
「お前たちは日本国民でありながら、天皇陛下を神と仰がず、ヤソの神ばかりを信ずるというそうじゃないか。悪いといってこんな悪事はあるか。不忠者めが。正直に白状しなさい。」
ときたのである。
そこで私はキリスト教の神観を説明すると、
「この野郎、つべこべ文句を並べるか。」
課長は、阿修羅のごとき血相をして立ち上がり、書記役の部長にささやく。部長はまもなく七人ばかりの若い刑事を伴って来た。そして私を道場のまん中に連れて行き、ぐるりと取りまいて、それから私を柔道の手でもって投げとばすのである。すると向こう側にいる者は、それを受けて、また投げとばすのである。若い刑事達は嬉しそうにやっていたらしい。私は丁度やっこだこのようであった。
しばらくあって、私は元の座にすわらせられた。
「どうだ、正直に申し上げるか。」
「ハイ、申し上げます。先刻申し上げた通り、キリスト教を伝道するのは私の使命でした。そして、神は天地の創造者で世界を治め給う神であると、キリスト教では教えるのです。しかもその神はやがて世界を審判するお方ですから…」
「これ奴、強情な奴だ。」
課長はまた立ち上がり、課長自ら、私の頭髪を双手にぐいと握り、広い道場を引きずりまわしたのである。やがて、またテーブルの前に私を座らせた。刑事が持ってきた濡れタオルで自分の顔をふき、手を拭いながら、私にこう言ったのだ。
「今日はこれで中止するが、次回には正直に申し上げるんだ。監房に帰って、よく考えるがいい。正直に白状するまでは調べるからナ。」
私は部長に連れられて、留置場に帰った。